夜勤明けの廊下は、まだ誰の足音もない。
介護士の彼女は、カートを押しながら、ふと立ち止まる。
ある部屋の前で、いつもより長く息を吐いた。
「あの人、また眠れなかったのかしら」ドアの隙間から漏れる微かな灯り。
その向こうで、78歳の彼女は、ただ天井を見つめていた。「触れられないまま、朝が来るのね」
それは、誰にも聞こえない独り言だった。
夜勤明けの廊下は、まだ誰の足音もない。
介護士の彼女は、カートを押しながら、ふと立ち止まる。
ある部屋の前で、いつもより長く息を吐いた。
「あの人、また眠れなかったのかしら」
ドアの隙間から漏れる微かな灯り。
その向こうで、78歳の彼女は、ただ天井を見つめていた。
「触れられないまま、朝が来るのね」
それは、誰にも聞こえない独り言だった。
「髪、乾かしましょうか」
そう言って、彼女はドライヤーを手に取った。
入所者の髪は細くて柔らかく、風に揺れるたびに、何かを思い出しそうになる。
「昔ね、恋人に髪をとかしてもらったことがあるの」
ぽつりと、入所者が言った。
「女の人だったの。…言っちゃいけない時代だったけど」
介護士は、手を止めなかった。
ただ、少しだけ、指の動きが優しくなった。
休憩室の窓から、まだ暗い空が見える。
夫からのLINEは、今日も「お疲れさま」のスタンプだけ。
彼女はスマホを伏せて、コーヒーを一口飲んだ。
「私、誰かに触れられたいのかもしれない」
声に出したわけじゃない。
でも、その言葉が、胸の奥で何度も反響していた。
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