第一章:退院の日、風の音
病室の窓が、朝の光をやわらかく受け止めていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、白いシーツの上に細く伸びている。
希星は、ベッドの上でゆっくりと身体を起こした。
手術から三日。
まだ少しだけ身体は重いけれど、
目覚めた朝の空気は、どこか澄んでいた。
「……おはよう」
どれみが、ベッド脇の椅子から顔をのぞかせた。
手には、黄色い毛布と同じ柄のクッション。
「おはよう」
希星は、小さく笑った。
その笑顔には、ほんの少しの疲れと、
それ以上の“生きている”という実感がにじんでいた。
「今日、退院だね」
「うん。帰ろう、“うち”に」
ふたりは、荷物をまとめながら、
病室の静けさに、そっと別れを告げた。
『ふたりの未来、夏の縁側で』
蝉の声が、遠くでかすかに鳴いていた。
午後の光が、障子の隙間から差し込んで、
畳の上にゆらゆらと影を落としている。
希星は、縁側に腰を下ろして、
冷たい麦茶のグラスを手にしていた。
術後の経過は順調で、
この数週間は、ようやく“普通の生活”に戻ってきた実感があった。
その隣に、どれみが座る。
白いシャツの袖をまくって、
手のひらで風をあおいでいる。
「……ねえ、お姉ちゃん」
どれみが、ふと声を落とした。
「ん?」
希星は、グラスを置いて、どれみの方を見た。
「わたし……先に、妊娠したい」
その言葉は、風の音にまぎれそうなほど、静かだった。
希星は、少しだけ目を見開いた。
でも、驚きよりも、
その言葉の奥にある“覚悟”のようなものを感じ取っていた。
「……どうして?」
問いながらも、責めるような気持ちはなかった。
ただ、知りたかった。
どれみは、少しだけ視線を落とし、
それから、まっすぐに希星を見た。
「お姉ちゃんの身体が、まだ本調子じゃないの、わかってる。
だから、無理してほしくないって思ったの。
それに……わたし、今なら、ちゃんと向き合える気がするの。
“親になる”ってことに」
希星は、しばらく黙っていた。
風が、ふたりの髪をそっと揺らす。
「……ありがとう」
やがて、希星が口を開いた。
「そう言ってくれて、うれしい。
でも、怖くない?」
どれみは、少しだけ笑った。
「怖いよ。でも、
“ふたりで育てる”って、あのとき決めたから。
わたしが先でも、わたしたちの子どもには変わりないでしょ?」
希星は、どれみの手を取った。
その手は、あの夜と同じように、少し冷たくて、でも力強かった。
「……うん。
わたしたちの子どもだね」
縁側の外では、風鈴が小さく鳴っていた。
夏の午後、ふたりの未来が、またひとつ動き出していた。
『ふたりの未来、静かな提案』
夜、ふたりは並んでソファに座っていた。
テレビはついていたけれど、音は小さく、
画面の光だけが部屋を照らしていた。
どれみは、妊娠に向けた準備の資料をめくっていた。
希星は、その横で静かにページをのぞき込んでいた。
「……ねえ、どれみ」
希星が、ぽつりと口を開いた。
「ん?」
どれみが顔を上げる。
「わたしも、一緒にお腹、大きくなっていきたい」
その言葉に、どれみは一瞬きょとんとして、
それから、目を丸くした。
「えっ……?」
「ほら、あるんだよ。
妊婦さんの疑似体験ができるスーツとか、
重さを再現するベルトとか。
そういうの、使ってみようかなって思って」
どれみは、しばらく黙って希星を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……お姉ちゃん、ほんとに変わったね」
「うん。変わったと思う。
でも、変わってよかったって思ってる」
「……ありがとう」
どれみは、そっと希星の手を握った。
「わたし、うれしい。
お姉ちゃんがそう言ってくれるの、すごく心強い」
「だって、わたしも“親になる”んだもん。
身体は変わらなくても、
気持ちは、ちゃんと一緒に育てていきたい」
どれみは、希星の肩に頭を預けた。
「じゃあさ、
お腹がふくらんできたら、
おそろいの服、着ようよ。
ゆったりしたワンピースとか」
「いいね、それ」
希星は、少し照れながら笑った。
「ふたりで“妊婦さん”してたら、
ちょっと変な目で見られるかもしれないけど」
「それでもいいよ。
だって、わたしたちの未来だもん」
部屋の中に、静かな笑い声が広がった。
テレビの画面では、誰かがケーキを焼いていた。
でも、ふたりの心の中には、
もっとあたたかいものが、ふくらみ始めていた。
『ふたりの未来、時計のように』
畳の上に敷かれた布団の上、
ふたりは向かい合って横になっていた。
障子の向こうから、月の光がやわらかく差し込んでいる。
「……ねえ、今、何時くらいだと思う?」
どれみが、希星の髪を指でなぞりながら聞いた。
「うーん……たぶん、11時半くらい?」
「ちがうよ。今は“6時”」
どれみは、くすっと笑って、
自分の頭を枕の位置に、足を希星の方へ向けた。
「ほら、わたしが短針で、
お姉ちゃんが長針。
ふたりで時計になってるの」
希星は、思わず吹き出した。
「なにそれ。じゃあ、わたしがぐるっと回れば、時間が進むの?」
「そうそう。じゃあ、回ってみて」
どれみが、いたずらっぽく言う。
希星は、ゆっくりと身体を起こし、
くるりと反対側に寝転がった。
ふたりの位置が、さっきと逆になる。
「はい、“12時”」
「じゃあ、次は“3時”」
どれみが、またくるりと回る。
ふたりは、まるで子どものように、
布団の上でくるくると回りながら、
笑い声をこぼした。
やがて、動きが止まり、
ふたりは再び向かい合って、息を整えた。
「……なんか、時間が戻ったみたい」
希星が、ぽつりと言った。
「うん。
でも、ちゃんと進んでるよ。
わたしたちの時計は、ふたりで回してるから」
希星は、どれみの頬に手を添えた。
「……ほんとに、そうだね」
「ねえ、お姉ちゃん」
「うん?」
「“ふたりで親になる”って、
なんか、すごく不思議だね。
でも、すごく自然な気もする」
「うん。
だって、わたしたち、
ずっと“ふたりで”生きてきたもんね」
布団の上、ふたりの影が重なって、
やがて、静かな呼吸のリズムに溶けていった。
夜は、まだしばらく続いていた。
ふたりの時計は、ゆっくりと、でも確かに、
未来へと回り続けていた。
『ふたりの未来、画面の向こうに』
夜の部屋。
ノートパソコンの画面が、ふたりの顔をやわらかく照らしていた。
どれみは、膝の上にパソコンをのせ、
希星はその隣で、そっと身を寄せていた。
「……この人、どう思う?」
どれみが、ひとつのプロフィールを開いた。
画面には、落ち着いた表情の男性の写真。
スーツ姿で、黒縁のメガネをかけている。
職業:事務職。年齢:35歳。役職:係長。名前:大野保志。
「……やさしそうな目だね」
希星が、画面を見つめながらつぶやいた。
「うん。
コメント欄に、“自分の遺伝子が誰かの未来に役立つなら嬉しい”って書いてあった」
どれみの声は、どこか安心したようだった。
「サラリーマンで、事務職……
なんか、すごく普通だけど、
その“普通さ”が、逆にいいなって思ったの」
「うん。
わたしたちの暮らしに、すっとなじむ感じがする」
ふたりは、しばらく黙って画面を見つめていた。
そこには、派手さも特別さもないけれど、
どこか“地に足のついた人”の気配があった。
「……この人にしようか」
どれみが、そっと言った。
「うん。
わたしも、そう思ってた」
希星は、どれみの手を握った。
「“誰かの未来に役立つなら”って、
その言葉、わたしたちにも向けてくれてる気がした」
「うん。
この人の想いも、ちゃんと受け取って、
ふたりで育てていこう」
どれみは、画面の“申請する”ボタンにカーソルを合わせた。
そして、希星と目を合わせて、
ゆっくりと、クリックした。
その瞬間、ふたりの未来に、
まだ見ぬ誰かの気配が、そっと加わった。
『ふたりの未来、静かな準備』
リビングのテーブルの上に、
白い布を敷いた小さなトレイが置かれていた。
その上には、滅菌済みのシリンジと、透明なビーカー。
どれみが、午前中に薬局で受け取ってきたものだった。
「……準備、できたね」
希星が、そっと言った。
「うん」
どれみは、深く息を吸った。
「なんか、すごく現実なんだなって思う」
「うん。でも、
この“現実”を、ちゃんと迎えたくて、
わたしたち、ここまで来たんだよね」
ふたりは、並んで座ったまま、
テーブルの上の道具を見つめた。
やがて、インターホンが鳴った。
「……来た」
どれみが立ち上がる。
希星も、そっと後を追った。
玄関のドアを開けると、
大野保志が、少し緊張した面持ちで立っていた。
「こんにちは。お約束の時間に伺いました」
「どうぞ。お入りください」
彼は、深く一礼してから、
静かに家の中へと足を踏み入れた。
『ふたりの未来、扉の向こうで』
数分後、
ふたりはリビングで静かに待っていた。
テーブルの上には、
先ほどと同じように、シリンジとビーカー。
その横に、封のされた小さな容器が置かれていた。
「……終わったってことだよね」
どれみが、そっとつぶやいた。
「うん。
あとは、わたしたちの番だね」
希星は、どれみの手を握った。
その手は、少しだけ冷たかったけれど、
震えてはいなかった。
「ありがとう、どれみ。
この選択をしてくれて」
「ううん。
ふたりで決めたことだもん」
どれみは、深く息を吸って、
そっと立ち上がった。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。
わたし、ここで待ってる。
終わったら、ちゃんと抱きしめさせて」
どれみは、笑った。
「もちろん。
だって、わたしたちの“はじまり”だもん」
障子の向こう、
静かな足音が遠ざかっていく。
希星は、テーブルの上の容器を見つめながら、
そっと目を閉じた。
(どうか、
この選択が、
やさしい命につながりますように)
風鈴が、かすかに鳴った。
夏の午後、ふたりの未来は、
静かに、でも確かに動き始めていた。
『ふたりの未来、手のひらの約束』
障子の向こう、
畳の上に敷かれた布団の上で、
どれみは静かに横になっていた。
希星は、そっと手を洗い、
滅菌されたシリンジを手に取った。
「……準備、できた?」
どれみの声は、少しだけ震えていた。
「うん。
ゆっくり、やさしくするから。
痛くないように、ちゃんとする」
どれみは、深く息を吸って、
目を閉じた。
希星は、そっと膝をつき、
どれみの足元に座った。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「こっちこそ。
どれみの身体に、
わたしたちの未来を迎えさせてもらうんだもん。
大切にするよ」
シリンジの先端を、
どれみの身体にそっとあてる。
「……入れるね」
「うん」
静かな時間が流れる。
風の音も、時計の針の音も、
すべてが遠くなるような、
ふたりだけの空間。
希星の手が、
どれみの身体の奥へと、
やさしく、確かに未来を届けていく。
「……終わったよ」
「うん……ありがとう」
希星は、そっとどれみの手を握った。
その手は、少し汗ばんでいたけれど、
しっかりと握り返してくれた。
「この手で、
わたしたちの未来を迎えられて、
本当によかった」
どれみは、目を開けて、
希星を見つめた。
「わたしも。
お姉ちゃんの手で、
この命を迎えられて、うれしい」
ふたりの間に、
静かな呼吸が重なっていく。
その夜、
ふたりは布団の上で、
未来の気配を、
そっと抱きしめていた。
『ふたりの未来、白い扉の前で』
陽性反応の出た検査スティックを、
どれみは小さな布に包んでバッグに入れた。
希星は、その横でそっと手を握った。
「……行こうか」
「うん」
ふたりが向かったのは、
町のはずれにある白い建物。
「たかはしレディースクリニック」と書かれた看板が、
やわらかなフォントで掲げられていた。
「ここって……」
希星が、受付の前でつぶやいた。
「うん。中村総合病院の高橋ななみ先生の娘さんが、
独立して開いた医院なんだって。
口コミもすごくよくて、
“話をちゃんと聞いてくれる先生”って評判だったから」
受付の女性が、やさしく微笑んだ。
「初診ですね。ご予約のお名前は?」
「はい、どれみです」
「ご本人と、付き添いの方ですね。
どうぞ、こちらの問診票にご記入ください」
待合室は、木の香りがする落ち着いた空間だった。
壁には、季節の花の水彩画が飾られていて、
どこか“家庭”のようなあたたかさがあった。
どれみは、バッグの中から検査スティックを取り出し、
受付にそっと差し出した。
「こちら、今朝のものです」
「ありがとうございます。
先生にお渡ししておきますね」
希星は、どれみの肩に手を置いた。
「……なんか、ほんとに始まったって感じがするね」
「うん。
わたしの中に、ちゃんと“いる”って、
証明してもらえる気がする」
ふたりは、呼ばれるまでの静かな時間を、
手をつないで過ごしていた。
『ふたりの未来、かなめ先生との出会い』
「どれみさん、どうぞ」
看護師の声に導かれて、
ふたりは診察室の扉をそっと開けた。
中には、白衣をまとった女性が座っていた。
肩までの黒髪をすっきりとまとめ、
落ち着いたまなざしでカルテを見つめている。
「こんにちは。院長の高橋かなめです」
その声は、低く、やわらかく響いた。
どれみと希星は、少しだけ緊張しながらも、
深く頭を下げた。
「今日は、ようこそ。
おふたりで来てくださったんですね」
「はい……わたしたち、ふたりで“親になる”ことを選びました」
どれみが、少しだけ声を震わせながら言った。
かなめは、ふっと微笑んだ。
「そうですか。
それは、とても素敵な選択ですね」
その言葉に、ふたりの肩の力が少し抜けた。
「……あの、先生」
希星が、ためらいながら口を開いた。
「こういう形での妊娠って、
受け入れてもらえるか、不安で……」
かなめは、ゆっくりと顔を上げた。
そのまなざしは、まっすぐで、あたたかかった。
「わたし自身、
“どちらでもある”身体で生まれました。
だからこそ、
“どんな家族のかたちも、命の始まりに変わりはない”と、
本気で思っています」
どれみの目に、涙がにじんだ。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。
おふたりのような方が、
この場所を選んでくれたことが、うれしいです」
かなめは、そっと手を差し出した。
「では、診ていきましょう。
まずは、命が“そこにいる”ことを、
いっしょに確かめましょうね」
『ふたりの未来、ふたつのふくらみ』
午後の光が、障子の隙間からやわらかく差し込んでいた。
どれみは、白いワンピースの裾を整えながら、
鏡の前でお腹をそっと撫でていた。
その隣に立つ希星は、
少しぎこちない動きで、
お腹に装着した妊婦体験スーツを調整していた。
「……重いね、これ」
「でしょ? でも、まだ“初期”設定だよ」
どれみが、くすっと笑う。
希星は、鏡の中の自分を見つめた。
ふくらんだお腹、少し前かがみになる姿勢。
「……なんか、ほんとに妊婦さんみたい」
「うん。
わたし、うれしいよ。
お姉ちゃんが“いっしょに”って言ってくれて」
希星は、どれみの手を取った。
「わたしも、こうして“身体で感じる”ことで、
どれみのこと、もっと近くに感じられる気がする」
ふたりは、鏡の前で並んで立った。
ふたつのふくらみが、
まるで未来を映すように、静かに揺れていた。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「うん?」
「このまま、ふたりで“おそろい”のまま、
ずっと歩いていけたらいいね」
「うん。
たとえ形が違っても、
気持ちは、いつも並んでるから」
外では、風鈴がやさしく鳴っていた。
ふたりの未来は、今日も静かに、
でも確かにふくらんでいた。
『ふたりの未来、やさしい試み』
「半年間、愛はおあずけだね」
どれみが、少し照れたように笑った。
「うん。でも、
そのぶん、やさしい試みは続けていこう」
希星は、どれみの手をそっと握った。
その夜、ふたりは並んで布団に入った。
身体を重ねることはしない。
けれど、手のひらと手のひらが触れ合うだけで、
心の奥がじんわりとあたたかくなる。
「お姉ちゃん、わたしね、
最近、ひとりでしても感じなくなってて……
お姉ちゃんじゃないと、ダメみたい」
どれみの声は、かすかに震えていた。
希星は、驚いたように目を見開いたあと、
そっとどれみの額にキスをした。
「わたしも。
どれみじゃないと、心が動かない。
だから、そんなときも、支え合っていこうね」
ふたりは、言葉を交わさず、
ただ静かに寄り添った。
夜の静けさの中で、
どれみのお腹のふくらみが、
やさしく呼吸していた。
希星は、そっとその上に手を置いた。
「ここに、わたしたちの未来がいるんだね」
「うん。
だから、今はこの時間を大切にしたい」
ふたりの手のひらのあいだに、
まだ見ぬ命のぬくもりが、
確かに息づいていた。
『お願い、ひとつだけ』
夕暮れの光が、障子の隙間から差し込んでいた。
畳の上に座るどれみは、
お腹にそっと手を添えたまま、
何かを言い出せずにいた。
希星は、湯呑みにお茶を注ぎながら、
その気配に気づいて、
そっと隣に腰を下ろした。
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」
「ほんとに?」
どれみは、少しだけ顔を伏せたあと、
ゆっくりと希星の方を向いた。
「お姉ちゃん……お願いがあるの」
「うん、言ってごらん」
「お腹が大きくなってきて、
もうすぐ安定期に入るでしょ?
だから……その記念に、
ふたりで写真を撮りに行きたいの」
希星は、少し驚いたように目を見開いた。
「写真? いいね。どこで?」
「まちの写真館。
あそこ、自然光で撮ってくれるって聞いたの。
それでね……」
どれみは、少しだけ間を置いて、
言葉を選ぶように続けた。
「ふたりで、
何も着ないで、撮りたいの。
全身で、今のわたしたちを残したいの。
……協力してくれる?」
希星は、しばらく黙っていた。
けれど、その沈黙は拒絶ではなく、
ただ、言葉を探している時間だった。
やがて、ふっと笑って、
どれみの手を握った。
「いいよ。
わたしもね、
一生に一度、そういう写真を撮ってみたいって思ってたの。
どれみとなら、残したいって思える」
どれみの目が、ふわりとほどけた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
ふたりの手のひらが重なり、
そのあたたかさが、
未来への約束のように感じられた。
『光のなかで、ふたり』
その朝、
どれみは白い布を一枚だけ選んだ。
希星も、同じように静かにうなずいた。
ふたりの間に言葉は少なかったけれど、
“今日という日”が特別であることは、
互いのまなざしがすべてを語っていた。
写真館の扉を開けると、
やわらかな光が差し込んでいた。
まるで、ふたりを包むために
用意されていたかのような、静かな祝福。
「準備ができたら、お呼びください」
カメラマンは、そっと席を外した。
ふたりは、そっと布をほどいた。
羞じらいも、誇りも、
すべてを受け入れるように。
どれみのお腹は、
やさしくふくらみ、
希星の手がそこに重なった。
「ここに、いるんだね」
「うん。わたしたちの未来が」
ふたりは、ただ立っていた。
光のなかで、
影さえもやわらかく溶けていく。
シャッターの音が、
静かに響いた。
それは、
ふたりの時間が一枚の記憶に変わる音。
「この写真、
いつか見せようね。
あなたが生まれたら」
「うん。
“あなたがいたから、
わたしたちはこんなにも優しくなれた”って」
ふたりは、そっと布をまとい、
もう一度、手をつないだ。
『お願い、ひとつだけ』
夕暮れの光が、障子の隙間から差し込んでいた。
畳の上に座るどれみは、
お腹にそっと手を添えたまま、
何かを言い出せずにいた。
希星は、湯呑みにお茶を注ぎながら、
その気配に気づいて、
そっと隣に腰を下ろした。
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」
「ほんとに?」
どれみは、少しだけ顔を伏せたあと、
ゆっくりと希星の方を向いた。
「お姉ちゃん……お願いがあるの」
「うん、言ってごらん」
「お腹が大きくなってきて、
もうすぐ安定期に入るでしょ?
だから……その記念に、
ふたりで写真を撮りに行きたいの」
希星は、少し驚いたように目を見開いた。
「写真? いいね。どこで?」
「まちの写真館。
あそこ、自然光で撮ってくれるって聞いたの。
それでね……」
どれみは、少しだけ間を置いて、
言葉を選ぶように続けた。
「ふたりで、
何も着ないで、撮りたいの。
全身で、今のわたしたちを残したいの。
……協力してくれる?」
希星は、しばらく黙っていた。
けれど、その沈黙は拒絶ではなく、
ただ、言葉を探している時間だった。
やがて、ふっと笑って、
どれみの手を握った。
「いいよ。
わたしもね、
一生に一度、そういう写真を撮ってみたいって思ってたの。
どれみとなら、残したいって思える」
どれみの目が、ふわりとほどけた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
ふたりの手のひらが重なり、
そのあたたかさが、
未来への約束のように感じられた。
『帰り道、それぞれのこころ』
どれみの心の声
あのシャッターの音が、
まだ耳の奥に残ってる。
恥ずかしさもあったけど、
それよりも、
「今のわたしたちを残せた」っていう実感が、
胸の奥でじんわり広がってる。
お姉ちゃんの手が、
ずっとわたしの背中にあって、
それだけで安心できた。
あの写真、
いつか子どもに見せられるかな。
「あなたがいたから、
わたしたちはこんなにも優しくなれたんだよ」って。
希星の心の声
どれみが「撮りたい」って言ったとき、
正直、少し戸惑った。
でも、あの光の中で並んで立ったとき、
すべてが腑に落ちた。
これは“見せる”ためじゃない。
“残す”ためのものなんだって。
どれみの身体も、表情も、
すべてがいとおしかった。
そして、自分の中の迷いや不安も、
あの一枚にそっと預けられた気がする。
手をつなぐと、
どれみの指先が少し震えていた。
でも、それがまた愛おしくて、
わたしもそっと握り返した。
希星は、少し照れたようにお腹のスーツを撫でながら、
「うーん……正直、まだ慣れないかも」と笑った。
「重たいし、前が見えにくいし、
階段とかちょっと怖いし……」
そう言いながらも、
どれみの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いていた。
どれみは、そんな希星の手をぎゅっと握って、
「でもね、そうやって“わたしの世界”を一緒に歩いてくれてるの、
すごくうれしいんだよ」と言った。
希星は、ふっと息を吐いて、
「わたしも、どれみの“今”を一緒に感じていたいんだ。
だから、慣れるまで、何度でも歩くよ」
そう答えた。
ふたりの足音は、
まるで同じリズムを刻むように、
静かに、確かに、道を進んでいた。
『名前のこと、ふたりで』
午後の光が、縁側の障子越しにやわらかく差し込んでいた。
どれみは、湯呑みを両手で包みながら、
お腹を見つめていた。
希星は、隣で編みかけのベビー服を手に取りながら、
ふと、どれみに声をかけた。
「ねえ、どれみ。
もし、この子が女の子だったら……
“麗奈”って名前、どうかな?」
どれみは、少し驚いたように顔を上げた。
「麗奈……?」
「うん。
“うつくしい”って字に、“なごむ”って響き。
どれみが言ってた“やさしく息をしてほしい”って気持ち、
そのまま名前にできる気がして」
どれみは、しばらく黙っていたけれど、
やがて、ふわりと笑った。
「……いいね。
お姉ちゃんの口から聞くと、
なんだかもう、この子の中に根づいてるみたい」
希星もうなずいた。
「それに、もし男の子だったら――
どれみが言ってた“真王”、そのままがいいと思う。
“まお”って響きも、
どれみの声にぴったりだったから」
どれみは、少しだけ目を潤ませて、
お腹にそっと手を添えた。
「……ありがとう。
どっちでも、きっとこの子は喜んでるね」
そのとき、どれみのお腹が、
ふわりと内側から動いた。
「……あっ」
どれみが目を見開く。
「動いた?」
希星が身を乗り出す。
「うん……“まお”が、うなずいたみたい」
ふたりは顔を見合わせて、
そっと笑い合った。
縁側の外では、風鈴がやさしく鳴っていた。
その音に包まれながら、
ふたりは未来の名前を、
心の奥にそっと刻んだ。
縁側に並んで座っていたふたり。
どれみは、麦茶を飲みながら、
お腹をなでるようにしていた。
希星は、ふと横目でどれみを見て、
少しだけ言葉を選ぶように、そっとつぶやいた。
「……どれみ、
お胸、大きくなったね」
どれみは、ぴくっと肩をすくめて、
「えっ……や、やっぱり?」と、
少し赤くなった頬を隠すようにうつむいた。
「うん。
なんていうか……
母になる準備って、身体にもちゃんと現れるんだなって思って」
どれみは、照れながらも笑った。
「最近、ちょっと重たくて……
でも、これも“まお”のためなんだよね」
希星は、そっとどれみの背中に手を添えた。
「うん。
どれみの身体が、ちゃんと未来を育ててるんだね。
すごいなって思うよ」
どれみは、少しだけ目を潤ませて、
「……ありがとう。
お姉ちゃんにそう言ってもらえると、
なんだか、ちゃんと“母親”になれてる気がする」
ふたりの間に、静かな風が吹いた。
それは、からかいでも、遠慮でもなく、
ただ、やさしい実感を分かち合う時間だった。
『湯気の向こうに、やわらかな時間』
夕暮れの光が、障子越しにやわらかく差し込んでいた。
台所からは、湯を沸かす音が静かに響いている。
どれみは、洗面所の前で髪をほどきながら、
ふと、希星の方を振り返った。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「安定期に入ったし……
そろそろ、ゆっくりふたりの時間、楽しみたいなって思って」
希星は、タオルをたたみながら、
どれみの目を見て、やさしくうなずいた。
「うん。
今日は、湯船にゆっくりつかろう。
背中、流してあげる」
どれみは、ふふっと笑って、
「じゃあ、わたしもお姉ちゃんの髪、洗ってあげるね」
と、少し照れたように言った。
湯気が少しずつ立ちのぼる浴室の戸を開けると、
そこには、
ふたりだけの静かな時間が待っていた。
『湯気の向こうで』
浴室に、静かな湯気が立ちこめていた。
どれみは、湯船のふちに手をかけて座り、
希星が後ろからそっと背中にお湯をかけていた。
「熱くない?」
「ううん、ちょうどいいよ」
希星は、やわらかい手つきで背中をなでながら、
「ここ、ちょっとこってるね」とつぶやいた。
どれみは、くすっと笑って、
「お姉ちゃん、そこばっかり触る〜」と肩をすくめた。
「だって、がんばってる証拠でしょ。
ちゃんとほぐしてあげたいんだもん」
どれみは、少し照れたようにうつむいて、
「……ありがとう」と小さくつぶやいた。
そのあと、ふたりは湯船に並んでつかり、
しばらく黙っていた。
湯の中で、どれみの指先がふと動いて、
希星の手にそっと触れた。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「こうしてると、
なんか、全部がやさしくなるね」
希星は、どれみの手を握り返して、
「うん。
わたしも、そう思ってた」
湯気の向こうで、ふたりの手が重なり、
そのぬくもりが、
言葉よりも深く、心にしみこんでいった。
湯上がりの脱衣所。
どれみは、タオルで髪を拭きながら、
ふと、希星の背中を見つめた。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「もう……手術のあと、痛くない?
もう、大丈夫なの?」
希星は、少しだけ間をおいて、
タオルをたたみながら答えた。
「うん。もう、ほとんど痛まないよ。
季節の変わり目にちょっと違和感あるくらい」
どれみは、ほっとしたように息をついた。
「生理は? 前より楽になった?」
希星は、少し笑ってうなずいた。
「うん、だいぶ。
高橋先生、やっぱり評判どおりだったね。
術後のフォローも丁寧だったし、
何より、ちゃんと“わたしの話”を聞いてくれた」
どれみは、うれしそうに微笑んだ。
「よかった……ほんとに、よかった」
希星は、どれみの濡れた髪にそっと手を伸ばして、
「ありがとう。
どれみが、ずっと気にかけてくれてたの、わかってたよ」
と、やさしく言った。
ふたりの間に流れる空気は、
お湯のぬくもりのように、
静かで、あたたかかった。
秋の風が、少し冷たくなってきた午後。
ふたりは、こたつに足を入れて、
湯気の立つお茶を手にしていた。
どれみは、カレンダーを見つめながら、
ふと、つぶやいた。
「……あれ。
もう、予定日まであと二週間だ」
希星は、湯呑みを置いて、
「ほんとだ……」と、カレンダーをのぞき込んだ。
「なんだか、あっという間だったね」
「うん。
お姉ちゃんと、いろんな話して、
笑ったり、泣いたりしてるうちに……
もう、ここまで来てたんだね」
どれみは、お腹に手を当てて、
「“まお”、ちゃんと準備できてるかな」
と、少し不安そうに笑った。
希星は、どれみの手の上に自分の手を重ねて、
「大丈夫。
どれみも、“まお”も、ちゃんとここまで来たんだもん。
あとは、迎えるだけだよ」
窓の外では、風が木の葉を揺らしていた。
その音が、まるで「もうすぐだよ」と告げているようだった。
こたつの上に置かれた母子手帳を見つめながら、
どれみがぽつりとつぶやいた。
「ねえ、お姉ちゃん……
中村先生の総合病院、行こうかなって思ってるの」
希星が顔を上げる。
「うん? どうして?」
「予定日も近いし、
もし何かあったとき、設備が整ってる方が安心かなって。
中村先生、前にお姉ちゃんも“信頼できる”って言ってたよね」
希星は、少し考えてから、
やさしくうなずいた。
「うん、あの先生なら大丈夫。
わたしも、あそこにしてよかったって思ってる」
どれみは、ほっとしたように笑った。
「じゃあ、明日、予約入れてみるね」
ふたりの間に流れる空気は、
少しだけ緊張と、たくさんの安心で満ちていた。
『そのときが、すぐそこに』
中村総合病院の診察室。
どれみは、少し緊張した面持ちでベッドに横たわっていた。
モニターの音が、規則正しく響いている。
中村先生が、やさしい声で言った。
「うん……明日にでも破水しちゃいそうですね。
どうされますか? 今ならベッド、空いてますよ」
どれみは、驚いたように目を見開いた。
隣にいた希星が、すぐに声をかけた。
「どれみ、初産だし……泊まっていきな。
わたし、一度家に戻って、必要なものナースに聞いて持ってくるから」
どれみは、少し戸惑いながらも、
お腹に手を当てて、ゆっくりうなずいた。
「……うん。
“まお”が、もう来ようとしてるんだね」
希星は、どれみの手をぎゅっと握って、
「すぐ戻るから。
安心して、ここで待ってて」
と、やさしく微笑んだ。
診察室の窓の外では、
冬の光が静かに差し込んでいた。
その光の中で、どれみは深く息を吸い込んだ。
『そのときが来た』
病室の時計が、午後9時を指していた。
どれみは、ベッドの上で深く息を吐いたその瞬間――
「……あっ」
お腹の奥で、何かがはじけたような感覚。
ナースコールを押すと、すぐに助産師が駆けつけた。
「破水ですね。どれみさん、分娩室へ移動しますよ」
車椅子に乗せられ、白い廊下を進む。
天井の灯りが、ゆっくりと流れていく。
どれみは、手をぎゅっと握りしめながら、
「……まお、もうすぐ会えるんだね」と心の中でつぶやいた。
分娩室の扉が開く。
そこは、静かで、でも確かな緊張感に包まれていた。
助産師がやさしく声をかける。
「大丈夫ですよ。お姉さんも、もうすぐ来ますからね」
どれみは、うなずいた。
額に汗がにじみ、呼吸が浅くなる。
でも――
その痛みの向こうに、
“まお”の声が聞こえる気がした。
『間に合わないくらい、命が急いでいた』
分娩室に運ばれてから、まだ30分も経っていなかった。
どれみの呼吸は浅く、額には汗がにじんでいる。
助産師がモニターを見ながら、
「進みが早いですね……! 剃毛の時間、もう取れません」
と、すぐに準備に入った。
「どれみさん、いきめますか?」
「……うんっ!」
どれみは、全身の力を込めて、
波のように押し寄せる痛みに耐えながら、
お腹の奥にいる“まお”に向かって、
心の中で何度も呼びかけた。
「もうすぐだよ……
がんばろうね、いっしょに……!」
扉が開いて、希星が駆け込んできた。
「どれみ!」
「お姉ちゃん……!」
希星は、どれみの手を握りしめた。
「ここにいるよ。
いっしょに、迎えよう」
そして――
次の瞬間、
小さな産声が、分娩室に響いた。
どれみの目から、涙がこぼれた。
それは、痛みでも不安でもない、
ただただ、命の重みに震える涙だった。
〈VOL.3 終章〉
小さな産声が、分娩室に響いたとき――
どれみの世界は、静かに、でも確かに変わった。
痛みも、涙も、
すべてがこの瞬間のためにあったのだと、
胸の奥で確信する。
希星がそっと手を握り、
「ようこそ、“まお”」とつぶやいたとき、
ふたりの時間は、また新しいかたちで動き出した。
けれど――
これは、はじまりにすぎない。
“まお”という存在が、
ふたりの世界にどんな風を吹かせるのか。
どれみの心と身体は、これからどう変わっていくのか。
そして、
希星が胸の奥にしまっていた“ある決意”が、
静かに動き出そうとしていた。
次章、VOL.4――
「まおのいる日々」が、幕を開ける。

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