『山村の宿』断章

板前ふたりの記録

— 涼と蓮 —


【一】はじまりの音

蓮が厨房に入ったのは、春の終わりだった。
包丁の持ち方もぎこちなく、
魚の目をまっすぐ見られない青年だった。

「お前、名前は?」

「蓮です。…れん」

「そうか。じゃあ、蓮。
まずは、まな板の音を覚えろ。
料理は、音でわかる」

涼は、それだけ言って、
黙って鰹をさばきはじめた。

【二】火を預ける

夏の盛り。
蓮は、ようやく出汁を任されるようになった。

「涼さん、
今日の煮物、火加減どうします?」

「お前に任せる。
もう、見て覚えたろ?」

その言葉に、蓮は小さくうなずいた。
鍋の前に立つ背中に、
涼は、かつての自分を重ねていた。

【三】味見

ある日の昼下がり。
仕込みが終わった厨房で、
ふたりは湯呑を手にしていた。

「涼さん、
俺、ここに来てよかったです」

「…そうか」

「前の店じゃ、
“お前は手が遅い”って怒鳴られてばかりで。
でも、ここでは…
ちゃんと、味見させてもらえるから」

涼は、黙って湯呑を差し出した。

「飲め。
今日の出汁、お前がとったやつだろ」

蓮は、ひと口すすって、
「…うん」と笑った。

【四】夜のまな板

秋の夜。
厨房の灯が落ちたあと、
涼はひとり、まな板を拭いていた。

蓮が戻ってくる。

「忘れ物、取りに来ました」

「そうか。
…おい、蓮」

「はい?」

「明日も、火加減、任せるぞ」

蓮は、少しだけ頬を赤らめて、
「はい」と答えた。

【五】誰にも言わない

冬の朝。
帳場の奥で、佳代がふとつぶやいた。

「涼さん、最近、よく笑うようになったわね」

文香が、帳簿から顔を上げる。

「そうですね。
蓮さんと並んでるとき、
なんだか、空気がやわらかいです」

佳代は、ふっと笑った。

「でも、あのふたり、
きっと何も言わないまま、
ずっと並んでる気がするわ」

【六】火の記憶

ある夜、蓮が涼に聞いた。

「涼さん、
好きな料理って、ありますか?」

「…鰻かな。
昔、教えてくれた人がいてね。
ちょっと変わったやつだったけど」

「その人、今も?」

「さあな。
でも、あいつの焼いた鰻の味、
まだ舌が覚えてる」

蓮は、黙ってうなずいた。
その夜、ふたりは並んで鰻を焼いた。

【七】灯は、まだ

春がまた来た。
蓮の包丁の音が、厨房に響く。

涼は、火を見つめながら、
ふとつぶやいた。

「蓮」

「はい?」

「…お前のまな板の音、
悪くないな」

蓮は、照れたように笑った。

「涼さんの音には、まだまだですけどね」

ふたりの間に、
言葉にしない火がともっていた。
それは恋かもしれないし、
ただの信頼かもしれない。

けれど、どちらでもよかった。
ふたりは、今日も厨房に立ち、
同じ味をつくっていた。

『山村の宿』断章



— 包丁の角度 —

厨房の灯が落ちたあと、
涼はひとり、まな板の前に立っていた。

今日も、蓮の包丁の音は悪くなかった。
まだ若い音だけれど、
迷いが減ってきた。
刃の入り方に、少しずつ“自分の形”が出てきている。

(あいつ、伸びるな)

そう思うと同時に、
胸の奥に、言葉にならないざわめきが残る。

(…なんだろうな、この感じ)

ふと、引き出しを開ける。
古い手紙が一枚、そこにある。
もう何年も前に届いたもの。
差出人の名前は、誰にも見せたことがない。

(あのときの気持ちは、
なんだったんだろう)

翌朝、蓮が厨房に入ってくる。

「おはようございます、涼さん。
昨日の出汁、どうでした?」

「…悪くなかった。
火の入りも、ちょうどよかった」

「ほんとですか?
よかった…」

蓮は、ほっとしたように笑った。
その笑顔に、涼は一瞬、目をそらした。

(この気持ちに、
名前をつける必要があるのか?)

その日、涼はいつもより少しだけ、
言葉が少なかった。
けれど、蓮の手元を見つめる時間は、
いつもより長かった。


『山村の宿』断章

— ちらつき —

「涼さん、
この鯛、三枚におろしていいですか?」

「ああ。
骨、浅めに入れろよ。身がやわらかいからな」

「了解です」

蓮は、まな板の上に鯛を置き、
包丁を構えた。
その手元に、涼の視線がふと落ちる。

(指の動きが、少し変わったな)

「そういえば、
彼女と一周年なんです」

蓮が、何気なく言った。

「へえ。…続いてるんだな」

「はい。
この前、休みの日に一緒に温泉行って。
すごく喜んでくれて」

「そうか」

涼は、手を止めずに答えた。
けれど、その声は少しだけ低かった。

「涼さんは、
誰かと温泉とか、行ったりしないんですか?」

「……昔、一度だけな」

「へえ、意外です。
どんな人だったんですか?」

「……変なやつだったよ。
魚の目を見て泣くようなやつだった」

「魚の目で泣く…?
それはまた、すごい人ですね」

蓮は笑った。
涼も、ふっと口元をゆるめた。

けれど、蓮は気づいていた。
涼の視線が、
自分の手元ではなく、
ときどき、自分の横顔に向いていることを。

(…なんだろう、あの目)

嫌ではない。
でも、まっすぐ見返すこともできない。

その夜、蓮は彼女からのLINEに
「今日もがんばったよ」と返した。
けれど、どこかで、
厨房の灯りのことを思い出していた。


『山村の宿』断章


— ふたりの温度 —

昼の仕込みがひと段落し、
厨房に静けさが戻る。

蓮が、まかないの味噌汁をよそいながら言った。

「涼さん、
彼女とか、いないんですか?」

涼は、湯呑にお茶を注ぎながら答えた。

「いないよ。
もう、ずいぶん長いこと」

「え、意外です。
料理うまいし、落ち着いてるし、
絶対モテると思ってました」

「そうか?
まあ、そういうの、
向いてないのかもしれないな」

「向いてないって…どうしてですか?」

涼は、少しだけ笑った。
けれど、その笑みはどこか遠かった。

「誰かと暮らすって、
料理みたいに、火加減だけじゃ済まないからな。
焦がすのが怖いんだよ」

蓮は、味噌汁をすすりながら、
その言葉を反芻した。

「…でも、焦がしても、
また作り直せばいいんじゃないですか?」

「そう思えるのは、
お前が若いからだよ」

「…なんか、それ、ずるいなあ」

涼は、ふっと笑った。

「ずるいか。
まあ、そうかもな」

そのあと、ふたりは黙って味噌汁をすすった。
けれど、蓮の中に、
“涼の時間”がふと入り込んだ気がした。

『山村の宿』断章

— 境界 —

夜の厨房。
仕込みが終わったあと、
涼はまな板を拭いていた。

そこへ、蓮がふらりと入ってくる。
いつもより足取りが重い。

「どうした」

「…ちょっと、いいですか」

涼は手を止め、
蓮の方を見た。

「彼女と、また喧嘩しました。
なんか、最近ずっと、
話してても噛み合わなくて…」

「そうか」

「“私のこと、ちゃんと見てない”って言われて。
そんなことないって言ったんですけど、
…たぶん、ほんとは、少し思い当たる節があって」

涼は、黙って聞いていた。
蓮の声は、いつもより低く、
どこか迷子のようだった。

「涼さんは、
誰かと一緒にいたとき、
ちゃんと向き合えてましたか?」

「……どうだろうな。
向き合ったつもりでも、
相手がそう思ってなきゃ、意味ないのかもな」

蓮は、うなずいた。
そして、ふとしゃがみ込んだ。

「なんか、疲れました。
今日は、もう何も考えたくないです」

涼は、落とした布巾を拾おうと、
蓮の前に膝をついた。

そのとき——
ふとした拍子に、
涼の手が、蓮の膝に触れた。
ほんの一瞬、
何かに触れたような、触れなかったような。

蓮の身体が、わずかにこわばる。

(…今のは)

涼も、すぐに手を引いた。
何も言わずに立ち上がる。

「悪い。
…もう上がっていいぞ」

「……はい」

蓮は立ち上がり、
何も言わずに厨房を出ていった。

その夜、蓮は布団の中で、
涼の手の感触を思い出していた。

(感じてはいけないものに、
触れてしまった気がする)

けれど、
それが何だったのか、
自分でもうまく言葉にできなかった。

涼は、厨房の灯を落としたあとも、
しばらくその場に立ち尽くしていた。

(…なぜ、あんなことを)

自分の中にあるものが、
少しずつ輪郭を持ちはじめていることに、
涼は気づいていた。

けれど、それを認めるには、
まだ夜が深すぎた。

『山村の宿』断章

— 寮の灯 —

夜十時すぎ。
宿から少し離れた、古い木造のアパート。
二階建てのその建物に、涼と蓮は住んでいる。
部屋は別々。
けれど、階段の軋む音や、
水道の流れる気配で、
互いの生活がうっすらと伝わってくる。

その夜、蓮は部屋の明かりをつけず、
布団に寝転んでいた。
天井の木目をぼんやりと見つめながら、
涼の手の感触を思い出していた。

(あれは、たまたま…だよな)

けれど、
あの一瞬の沈黙と、
涼の目の奥にあった“何か”が、
頭から離れなかった。

隣の部屋から、
包丁を研ぐ音がかすかに聞こえる。
シュッ、シュッ、と一定のリズム。
それは、厨房で聞き慣れた音なのに、
今夜はなぜか、胸の奥に響いた。

(…寝よう)

蓮は目を閉じた。
けれど、音はしばらく止まらなかった。

一方、涼の部屋。
まな板の上に置いた包丁を見つめながら、
涼は自分の手を見つめていた。

(あのとき、
なぜ、あんなふうに触れてしまったんだ)

ただの偶然。
そう言い聞かせても、
指先に残る感触が、
それを否定していた。

窓の外、風が竹を揺らす音がした。
涼は、包丁を拭き、
静かに灯りを落とした。


『山村の宿』断章

— 文香の記録帳より・朝の気配 —

朝の帳場。
いつもより少し早く、蓮くんが厨房に入っていった。
足音が、少しだけ速い。
けれど、どこか落ち着かない。

そのあとを追うように、涼さんがやってきた。
無言で厨房に入る。
挨拶の声が、今日は聞こえなかった。

朝食の準備が始まってしばらくしても、
厨房からは包丁の音と、
鍋の湯気の音しか聞こえてこない。

ふたりの声が、ない。

配膳の合間に、
厨房の前を通る。

蓮くんが、黙って出汁をすくっている。
涼さんは、火の前で背を向けたまま。

ふたりの間に、
“何か”が置かれているようだった。
言葉ではなく、
視線でもなく、
ただ、そこにある“間”。

“人は、触れてしまったあとに、
触れなかったふりをする。
けれど、ふりをしていることは、
たいてい、隣の人には伝わってしまう”

私は、何も言わない。
けれど、
今日の帳簿の端に、
そっと小さく印をつけておいた。

『山村の宿』断章

— 湯の間 —

その日、蓮は一日をなんとかやりきった。
包丁の音も、火加減も、
いつも通りにこなしたつもりだった。

けれど、涼との会話は、
「出汁、もう少し煮ていいですか」
「火、弱めろ」
そんな仕事のやりとりだけにとどまった。

(…まあ、仕方ないか)

そう思いながら、
夜の帳場にタオルを借りに行く。

「露天、空いてるわよ」
文香さんが、いつも通りの声で言った。

湯殿ののれんをくぐると、
湯気の向こうに、すでにひとり分の影があった。

(まさか…)

湯舟に近づくと、
そこにいたのは、涼だった。

「……あ」

涼も、こちらに気づいた。
けれど、目をそらさず、
ただ「おう」とだけ言った。

蓮は、軽く会釈して、
湯舟の端にそっと身を沈めた。

湯気が、ふたりの間を漂っている。
お湯の音だけが、静かに響く。

(なんで、今日に限って…)

蓮は、湯面を見つめながら、
言葉を探していた。
けれど、何も出てこない。

涼もまた、
湯舟の縁に腕をかけたまま、
空を見上げていた。

「……今日は、よく動いてたな」
涼が、ぽつりと言った。

「え?」

「手元、見てた。
いつもより、迷いがなかった」

「……ありがとうございます」

蓮は、湯の中で指を組んだ。
その手が、少しだけ震えていた。

「…昨日のこと、
気にしてるか?」

涼の声は、湯気にまぎれて、
どこか遠くから聞こえた。

蓮は、答えなかった。
けれど、その沈黙が、
すでに答えになっていた。

「……悪かったな」

涼は、そう言って立ち上がった。
湯舟から上がり、
タオルを肩にかける。

「先に出る。
風邪ひくなよ」

蓮は、湯舟にひとり残された。
湯気の向こうに消えていく背中を見送りながら、
胸の奥に、
言葉にならない熱が残っていた。


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『山村の宿』断章

— 湯の間・続 —

「……悪かったな」

涼はそう言って、
湯舟から立ち上がった。
湯気の向こうで、
その背中がにじんで見える。

タオルを肩にかけ、
湯殿の縁に手をかけたとき——

「……謝らないでください」

蓮の声が、湯気を裂いた。

涼の動きが止まる。

「俺、
怒ってるわけじゃないです。
ただ…」

蓮は、湯舟の中で立ち上がった。
湯気が肩をなでていく。

「昨日のこと、
俺も、忘れられてないだけで」

涼は、振り返らなかった。
けれど、肩がわずかに揺れた。

「先輩、
出ないでください。
…もう少しだけ、ここにいてもらえませんか」

蓮の声は、震えていた。
けれど、はっきりしていた。

涼は、しばらく黙っていた。
やがて、タオルをそっと置き、
再び湯舟に身を沈めた。

ふたりの間に、
湯気がまた立ちのぼる。

「……寒くなってきたな」
涼が、ぽつりとつぶやいた。

「そうですね。
でも、湯があったかいから、
まだ大丈夫です」

「そうか」

それきり、ふたりは何も言わなかった。
けれど、沈黙はもう、
気まずさではなくなっていた。

『山村の宿』断章

— 湯上がりの独白 —

部屋に戻って、
濡れた髪のまま、布団に倒れ込んだ。

天井の木目が、
さっきの湯気みたいに、ぼやけて見える。

(なんで、あんなことに)

僕には、彼女がいる。
ちゃんと、好きだと思ってる。
一緒にいると、安心するし、
笑ってくれると、うれしい。

でも——

涼さんのあの目。
あの声。
あの、沈黙のやさしさ。

彼女とは違う。
まるで、
火のそばにいるみたいな、
じんわりとしたあたたかさ。

(それに、俺……)

湯舟の中で、
自分の身体が反応していたことに、
気づいていた。

涼さんのウナギにふれたとき、
そのまま、
何かがほどけてしまいそうだった。

(おかしいな)

こんな気持ち、
知らなかった。

でも、
嫌じゃなかった。

布団の中で、
胸の奥が、
じんわりと熱を持っていた。

『山村の宿』断章

— 部屋の灯 —

夜十一時すぎ。
宿の仕事を終え、
涼はアパートの部屋に戻ってきた。

古い木造の二階建て。
隣の部屋には、蓮が住んでいる。

部屋の灯をつけると、
薄いカーテン越しに、
隣の部屋の明かりがぼんやりと見えた。

(まだ起きてるのか)

涼は、湯を沸かしながら、
ふと、あの夜のことを思い出していた。

蓮が、疲れた顔で厨房に残っていたこと。
「今日はもう、何も考えたくないです」と言ったこと。
そして——
自分が、あの子の膝に手を置いたこと。

(あれは、ただ…)

癒してやりたかっただけだ。
あのときの蓮は、
まるで、
昔の自分を見ているようだった。

誰にも頼れず、
ただ、火の前で立ち尽くしていた頃の自分。

けれど、
あの夜から、
蓮のことが、
ふとした瞬間に浮かぶようになった。

包丁を研いでいるとき。
出汁の香りを確かめているとき。
湯舟で目を閉じているとき。

(なんでだろうな)

湯が沸いた音に気づき、
急いで火を止める。

湯呑にお茶を注ぎ、
机に置いたまま、
涼はしばらく手をつけなかった。

隣の部屋から、
何かが落ちる小さな音がした。

涼は、そっと耳を澄ませた。

(気にするな。
ただの後輩だろ)

そう言い聞かせても、
胸の奥に残るざわめきは、
なかなか消えてくれなかった。


『山村の宿』断章

— すれ違い —

「……だから、そういう意味じゃなくて」

蓮は、声をひそめながら言った。
スマホの向こうで、彼女の声が重なる。

「じゃあ、どういう意味なの?
最近、全然会えてないし、
話してても、なんか他人みたい」

(そんなことない。
でも、うまく言えない)

「ごめん。
仕事が忙しくて、
ちょっと疲れてるだけで…」

「疲れてるのは、私だって同じだよ」

沈黙。
その沈黙が、
蓮の胸を締めつける。

言い返す言葉が見つからず、
スマホを持つ手に力が入る。

そのとき——

手がすべって、
スマホが床に落ちた。

コトン、と乾いた音。

「あっ、ごめん。今、落としちゃって…」

「……もういい。
また今度にしよう」

「待って、そんなつもりじゃ——」

通話が切れた。

蓮は、しばらく動けなかった。
床に落ちたスマホを見つめながら、
胸の奥が、
じんわりと痛んだ。

隣の部屋から、
何も音はしなかった。
けれど、
もしかしたら、
あの音が聞こえていたかもしれない。

(涼さん…起きてたら、
どう思っただろう)

蓮は、スマホを拾い上げ、
画面を伏せたまま、
机の上に置いた。

そして、
灯りを落とした。

『山村の宿』断章

— ノック —

夜十時すぎ。
涼は、湯呑を手に、
ぼんやりと窓の外を見ていた。

竹が風に揺れている。
その音だけが、部屋に満ちていた。

コン、コン。

控えめなノックの音。
涼は少し驚いて、立ち上がった。

ドアを開けると、
そこに蓮が立っていた。

髪が少し乱れていて、
目の奥に、
何かを決めた人の光があった。

「どうした」

「……あの、涼さん」

蓮は、少しだけうつむいてから、
まっすぐ顔を上げた。

「明日、地元に帰ってきます。
少しだけ、休みをください」

涼は、黙って彼を見つめた。

「志乃さんにも、ちゃんと連絡します。
…彼女と、ちゃんと話してきます。
このままじゃ、
どっちにも失礼な気がして」

涼は、しばらく黙っていた。
そして、静かにうなずいた。

「わかった。
気をつけて行けよ」

「はい。
ありがとうございます」

蓮は、頭を下げた。
その姿に、
涼は何も言えなかった。

ドアが閉まる。
静けさが戻る。

けれど、
涼の胸の奥には、
何かがぽつんと残っていた。

“送り出すことが、
正しいとわかっていても、
心が納得するとは限らない。
それでも、
背中を押すのが、
大人ってやつなんだろうか”

涼は、湯呑の茶を飲み干した。
少し冷めていた。

『山村の宿』断章

— 駅のコンコース —

改札を抜けると、
彼女は、ベンチに座っていた。

スマホを見ていたが、
蓮に気づくと、すぐに立ち上がった。

「……来てくれたんだ」

「うん。
ちゃんと話したくて」

ふたりの間に、
一瞬だけ、気まずい沈黙が流れた。

けれど、
蓮はその空気を断ち切るように、
彼女の手を取った。

「ごめん。
いろいろ、
ちゃんと向き合えてなかった」

「……うん」

「でも、
俺、やっぱり——
お前のこと、
愛してる」

彼女の目が、
少しだけ揺れた。

そのまま、
蓮は彼女を抱きしめた。

駅のコンコース。
人の流れの中で、
ふたりだけが止まっていた。

彼女が、
小さく笑った。

「……急に、どうしたのよ」

「今、言わなきゃって思った。
ちゃんと、言葉にしなきゃって」

そして、
蓮は彼女の頬に手を添え、
そのまま、
唇を重ねた。

強く、
まっすぐに。

まわりの視線なんて、
もうどうでもよかった。

この瞬間だけは、
彼女と自分の世界しかなかった。


『山村の宿』断章

— 忘れようとする夜 —

彼女の肩に、
蓮は額を押しつけた。

「……ごめん。
ちゃんと、向き合いたいんだ」

「うん。
私も、そう思ってた」

ふたりは、
ベッドに身を沈めた。

古いスプリングが、
ギシ…と音を立てた。

彼女の体温が近づくたびに、
蓮の胸の奥で、
別の記憶がざわめいた。

あの夜の、
湯舟の静けさ。
ふと触れた手首の温度。
言葉のないまなざし。

(違う。
今は、目の前の人を…)

彼は、彼女を強く抱きしめた。
まるで、
何かを振り払うように。

ギシ…ギシ…

ベッドのきしむ音が、
夜の静けさに混じって響いた。

彼女は、
何も言わなかった。

ただ、
蓮の背中に手をまわし、
その震えを感じていた。

“忘れようとするほど、
思い出は濃くなる。
それでも、
今、ここにいる人を、
ちゃんと抱きしめたかった”

夜が明けるころ、
蓮は目を覚ました。

彼女はまだ眠っていた。

蓮は、
そっとベッドを抜け出し、
窓を開けた。

冷たい朝の空気が、
火照った頬をなでた。

その一瞬、
涼の横顔が、
ふと浮かんだ。

『山村の宿』断章

— 夜の余白 —

ベッドの灯りは落ちていた。
カーテンの隙間から、
街灯の光が、
天井に淡く揺れていた。

彼女の腕の中で、
蓮は、
静かに肩を震わせていた。

「……ごめん。
なんか、
わけわかんないよな、俺」

「ううん。
泣いていいよ。
ここでは、泣いていい」

彼女の指が、
蓮の髪をそっとなでた。

その優しさに、
蓮は、
もう何もこらえられなかった。

「俺、
誰かに頼るの、
ずっと怖かったんだ」

「うん」

「でも、
涼さんに…
あの人に、
少しだけ、
甘えてしまった」

彼女は、
何も言わなかった。

ただ、
蓮の背中を抱きしめる腕に、
少しだけ力を込めた。

「でも、
ちゃんと戻ってきた。
お前のとこに。
それだけは、
信じてほしい」

「……信じてるよ」

しばらく、
ふたりは何も言わずにいた。

ただ、
呼吸の音と、
遠くの電車の音だけが、
夜の静けさに溶けていった。

“泣ける場所があることが、
こんなにも救いになるなんて、
きっと、
昔の自分は知らなかった”

『山村の宿』断章

— 夜明けの背中 —

カーテンの隙間から、
うっすらと朝の気配が差し込んでいた。

彼女は、まだ眠っていた。
呼吸は穏やかで、
まぶたの奥に夢を映しているようだった。

蓮は、
そっとベッドから降りた。

床がきしむ音を立てないように、
ゆっくりと足をついた。

洗面所の明かりを最小にして、
ティッシュを取り、
静かに包んだものを、
ゴミ箱の奥に沈めた。

パンツをはき、
ズボンをはき、
シャツのボタンをひとつずつ留め、
最後にブレザーの袖を通した。

部屋を見渡す。
昨日の夜、
彼女が笑った場所。
泣かせてしまった自分がいた場所。

玄関のドアを開ける前に、
スマホを取り出した。

LINEの画面を開き、
短く打ち込む。

「ありがとう。
仕事に戻る」

送信ボタンを押すと、
既読がつく前に、
スマホをポケットにしまった。

外は、
まだ街が目を覚ます前の静けさだった。

蓮は、
駅へ向かって歩き出した。

汽車に揺られながら、
窓の外を見つめる。

朝焼けが、
遠くの山をゆっくり染めていく。

“誰かの腕の中で泣いた夜を、
忘れないまま、
それでも、
自分の場所に戻る。
それが、
今の俺にできる、
いちばんまっすぐな選び方だった”


『山村の宿』断章

— 気づき —

夜。
湯呑の茶は、
もう冷めていた。

涼は、
それに口をつけることもなく、
ただ、窓の外を見ていた。

隣の部屋は、
まだ帰ってこない。

(たった二日だろ。
何をそんなに、
気にしてんだよ)

けれど、
気づいていた。

これは、
“気にしてる”なんて言葉じゃ
片づけられない感情だと。

あの夜、
蓮の手に触れたときのこと。
あの子の体温が、
自分の掌に残っていたこと。

“あれは、
ただの優しさじゃなかった。
俺は、
あいつのことが——”

言葉にした瞬間、
胸の奥が、
すうっと冷たくなった。

そして、
同時に、
どこかで納得している自分がいた。

(そうか。
俺、
あいつのこと、
好きだったんだな)

涼は、
湯呑を手に取り、
ようやく一口、
冷めた茶を飲んだ。

味は、
まるでしなかった。

『山村の宿』断章

— 湯気の向こう —

蓮がいなくなって二日目の夜。
涼は、いつもより早く風呂を沸かした。

湯が張られる音を聞きながら、
冷蔵庫の中をのぞく。
残っていた豆腐と小松菜で、
簡単な味噌汁をつくった。

湯気が立ちのぼる鍋の前で、
涼は、
何度も味見をした。

(ちょっと、しょっぱいな)

味噌を足すか迷ったが、
そのまま火を止めた。

ちゃぶ台に味噌汁と冷や飯を並べ、
テレビはつけずに、
箸を手に取った。

一口、
二口。

食べながら、
ふと、
隣の部屋の静けさが気になった。

(あいつ、
今ごろ何してんだか)

食べ終えると、
食器を流しに運び、
そのまま風呂場へ向かった。

湯に浸かると、
体の芯から力が抜けていく。

天井を見上げながら、
涼は目を閉じた。

“あの夜、
あいつの手が、
こんなふうに温かかったのを思い出す。
それだけで、
どうしようもなくなる”

風呂から上がると、
タオルで髪を拭きながら、
冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

ひと口飲んで、
ソファに沈み込む。

スマホを手に取っては、
すぐに画面を伏せた。

“何もない夜が、
こんなに長いとは思わなかった”

そのまま、
灯りを落とし、
毛布をかぶって横になる。

眠れないまま、
天井の木目を見つめていた。

『山村の宿』断章

— 不意の帰還 —

夜の九時を少し回ったころ。
涼は、
風呂上がりのまま、
部屋着のシャツに下着姿でソファに座っていた。

テレビはつけていない。
ただ、
湯冷ましの麦茶を飲みながら、
ぼんやりと天井を見ていた。

そのとき、
玄関のチャイムが鳴った。

「……誰だよ、こんな時間に」

立ち上がりかけて、
ふと足が止まる。

ドアの向こうから、
聞き覚えのある声がした。

「涼さん、俺です。
ただいま戻りました。
お土産、買ってきました。
……開けてもらえますか?」

涼は、
一瞬、何も言えなかった。

(なんで、今なんだよ)

慌てて、
近くにあったジャージのズボンを引っ張り上げる。
シャツの前は、
ボタンを留める間もなく、
はだけたまま。

玄関のドアを開けると、
そこに、
少し疲れた顔の蓮が立っていた。

「……帰ってきたのか」

「はい。
ちょっと、遅くなりました」

蓮は、
紙袋を差し出した。

「駅前で、
涼さんが好きそうなやつ、見つけたんで」

涼は、
袋を受け取りながら、
ちらりと自分の格好を見下ろした。

「……悪い、ちょっと待ってろ。
今、ちゃんと着る」

蓮は、
ふっと笑った。

「大丈夫です。
なんか、
涼さんらしいなって思いました」

涼は、
その言葉に少しだけ目をそらし、
「バカ」とだけつぶやいて、
奥の部屋へ引っ込んだ。

“不意を突かれると、
心の奥まで、
まるごと見られた気がする。
それでも、
嫌じゃなかったのは、
きっと——”

『山村の宿』断章

— 泡と炭酸 —

ちゃぶ台の上に、
缶ビールとコカ・コーラが並んだ。

「どっちがいい?」

涼が聞くと、
蓮は迷わず答えた。

「コーラで」

「だろうな」

涼は、
ビールのプルタブを開けた。

ぷしゅっという音とともに、
麦の香りがふわりと広がる。

蓮も、
コーラの缶を開けた。

炭酸のはじける音が、
部屋の静けさに小さく弾けた。

「乾杯とか、します?」

「……いらねえよ、そういうのは」

「ですよね」

ふたりは、
それぞれの缶を口に運んだ。

涼は、
ビールの苦みを感じながら、
蓮の横顔をちらりと見た。

蓮は、
コーラを飲みながら、
お土産の漬物をつまんでいた。

「……合わねえだろ、それ」

「意外といけますよ。
甘いのとしょっぱいの、
バランスいいです」

涼は、
ふっと笑った。

“同じものを飲まなくてもいい。
同じ場所にいれば、
それでいいんだと思えた”

ちゃぶ台の上には、
泡と炭酸の音が、
しばらくのあいだ、
心地よく続いていた。



『山村の宿』断章

— 引っ付きたい —

缶の中の炭酸が、
まだかすかに弾けていた。

蓮は、
コーラを飲み干すと、
空き缶をそっとテーブルに置いた。

「涼さん」

「ん?」

「……隣、行っていいですか」

涼は、
ビールを口に運ぶ手を止めた。

「なんで」

「なんか、
ひとりで寝るの、
今日はちょっと、やだなって」

涼は、
しばらく黙っていた。

蓮は、
ちゃぶ台の端に手を置いたまま、
視線を落としていた。

「……引っ付きたいです。
涼さんと」

その言葉に、
涼は、
小さく息を吐いた。

「お前なあ……
そういうの、
簡単に言うなよ」

「簡単じゃないです。
……でも、言いたかったんです」

涼は、
ビールを飲み干すと、
缶を静かにテーブルに置いた。

「……布団、敷いてこい。
俺はあとで行く」

蓮は、
顔を上げた。

「……はい」

立ち上がる後ろ姿に、
涼は目をやった。

“引っ付きたい、か。
そんな言葉、
いつぶりに聞いたんだろうな”

ちゃぶ台の上には、
空になった缶と、
まだ温もりの残るお土産が並んでいた。


『山村の宿』断章

— 触れない距離 —

蓮が布団を敷き終えたあと、
涼は台所の明かりを消し、
静かに部屋へ入った。

布団は、
ふたつ並べて敷かれていた。

けれど、
その間には、
ほんのわずかな隙間しかなかった。

蓮は、
すでに布団に入っていた。

「……おかえりなさい」

「……ああ」

涼も、
黙って布団に入った。

部屋の灯りを落とすと、
天井の木目が、
ぼんやりと浮かんだ。

隣から、
蓮の寝返りの音が聞こえる。

(近いな……)

涼は、
自分の呼吸が少し浅くなっているのに気づいた。

(なんで、
こんなに緊張してんだ、俺)

身体の一部が、
ぎゅっと縮こまるような感覚。

さっきまで、
ひとりで静かに整えていたはずの心が、
また波立ち始めていた。

けれど、
その波の中に、
どこかで“よかった”という気持ちが混じっていた。

“あいつが帰ってきて、
こうして隣にいる。
それだけで、
こんなにも、
体が正直になるなんて”

涼は、
目を閉じた。

隣から聞こえる蓮の呼吸が、
少しずつ深くなっていく。

(寝たか……)

そっと息を吐いて、
涼は、
布団の中で手を握った。

触れない距離。
けれど、
確かに“そばにいる”という実感が、
胸の奥にじんわりと広がっていた。


『山村の宿』断章

— 告白の夜 —

布団に入ってしばらく、
ふたりの間には、
静かな時間が流れていた。

蓮が、
小さく寝返りを打つ音がした。

涼のほうを向いたのだと、
気配でわかった。

「涼さん」

「……ん?」

「ひとつ、言っていいですか」

「……なんだよ」

蓮は、
少し間を置いてから、
ぽつりと口を開いた。

「僕、
彼女のことも、
まだちゃんと好きです。
でも……
先輩のことも、
忘れられないんです」

涼は、
目を閉じたまま、
呼吸を止めた。

「……すきです、先輩」

その言葉は、
夜の静けさに、
まっすぐ落ちた。

「今夜、
先輩に、
抱かれたいです」

涼は、
目を開けた。

天井の木目が、
さっきよりも遠くに感じた。

「……お前、
何言ってんだよ」

声が、
少しだけかすれた。

「冗談じゃないよな?」

「本気です。
……ずっと、言いたかった」

涼は、
布団の中で身を起こした。

蓮の顔は、
月明かりに照らされて、
真剣そのものだった。

「俺は……
男を、
そういうふうに見たことなんて、
一度もないんだぞ」

「知ってます。
でも、
それでも、
言いたかったんです」

涼は、
言葉を失ったまま、
しばらく蓮を見つめていた。

“この気持ちは、
どこから来たんだろう。
なんで、
こんなに胸が痛いんだろう”

「……少し、
考えさせてくれ」

「はい。
待ちます。
でも、
隣にいてもいいですか?」

涼は、
ゆっくりとうなずいた。

「……ああ。
それくらいなら、な」

ふたりは、
再び布団に横になった。

けれど、
もうさっきまでの静けさとは違う、
張りつめた空気が、
部屋を包んでいた。

『山村の宿』断章

— 言葉になる夜 —

布団の中、
蓮の告白が、まだ空気の中に残っていた。

「……先輩に、抱かれたいです」

涼は、
目を閉じたまま、
しばらく何も言わなかった。

胸の奥が、
ざわざわと波立っている。

(なんで、
こんなに動揺してるんだ)

けれど、
その動揺の奥に、
確かな“何か”があることにも、
気づいていた。

「……お前な」

涼は、
ゆっくりと目を開けた。

「俺は、
男をそういうふうに見たことなんて、
一度もなかった」

蓮は、
黙って涼の言葉を待っていた。

「でも……
お前のことになると、
なんか、
うまく言葉にならないんだよ」

涼は、
布団の中で身を起こした。

月明かりが、
蓮の横顔を照らしている。

「……たぶんな。
俺も、
お前のこと、
好きなんだと思う」

蓮の目が、
わずかに揺れた。

「でも、
どうしていいか、
正直わからない」

「わからなくて、いいです。
俺も、
わかってるわけじゃないから」

ふたりの間に、
静かな間が流れた。

けれど、
その沈黙はもう、
不安ではなかった。

「……今夜は、
ただ、ここにいろ」

「はい」

涼は、
布団に戻り、
蓮と同じ方向を向いた。

背中越しに、
蓮の呼吸が聞こえる。

そのリズムが、
少しずつ、
自分の呼吸と重なっていく。

“言葉にしたら、
何かが変わってしまう気がして、
怖かった。
でも、
言わなきゃ、
伝わらないこともあるんだな”

涼は、
そっと目を閉じた。

その夜、
ふたりは触れなかった。
けれど、
確かに、
同じ気持ちを抱いていた。

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