『山村の宿』VOL.7 @文香

— 朝の席にて —

朝の光が、
障子越しにやわらかく差し込んでいた。

宴会場は、
昨夜の喧騒が嘘のように静かで、
それぞれが思い思いの時間に、
朝食をとっていた。

湯豆腐の湯気が立ちのぼり、
味噌汁の香りが、
眠気をやさしくほどいていく。

志乃と典子は、
奥の席で並んで朝食をとっていた。

そこへ、
紗英がそっと近づいてきた。

「おはようございます」
少し緊張した声。

「おはよう、紗英ちゃん」
志乃が顔を上げて微笑む。

「昨日は、ありがとうね」
典子も、やさしくうなずいた。

紗英は、ふたりの前に立ったまま、
少しだけ言葉を選ぶようにしてから、口を開いた。

「……あの、
須美さんのことで、
ご相談したいことがあって」

志乃は、箸を置き、
紗英の目をまっすぐに見た。

「そう。
じゃあ、食事が終わったら、
ひとりで来なさい」

「はい……」
紗英は、深くうなずいた。

その背中を見送りながら、
典子が小さくつぶやいた。

「……いい顔してたわね、紗英さん」

志乃は、湯呑みに口をつけながら、
静かに笑った。

「ええ。
あの子、
ちゃんと“自分の言葉”を持ちはじめてる」

“朝の光の中で交わされた約束は、
湯気のようにあたたかく、
けれど確かに、
新しい一歩の始まりを告げていた”


『山村の宿』VOL.7

— 朝の部屋にて —

部屋に戻ると、
障子の向こうから、
朝の光がやわらかく差し込んでいた。

須美は、
髪をタオルで軽く拭きながら、
窓の外を見ていた。

紗英は、
荷物の整理をしながら、
ふと須美の方を見た。

「須美さん、
今日の午前中、自由行動って言ってたよね」

「うん、言ってたね。
お昼まで、各自でって」

紗英は、
浴衣の帯を締め直しながら、
少しだけ声のトーンを落とした。

「……わたし、
ちょっと出かけてくるね。
志乃さんのところに、
話しに行きたいことがあるの」

須美は、
少し驚いたように目を見開いたが、
すぐにうなずいた。

「うん、わかった。
気をつけてね」

「ありがとう。
須美さんは……
ひとりでもいいし、
誰かと一緒でもいいから、
好きに過ごしてて。
無理しないでね」

須美は、
その言葉に少しだけ笑った。

「大丈夫。
じゃあ、のりかちゃんでも誘ってみようかな」

「うん、それいいかも」
紗英は、にこっと笑って、
そっと部屋を出ていった。

“障子が閉まる音がして、
部屋に静けさが戻る。
けれどその静けさは、
どこかあたたかく、
昨夜とは違う“始まりの静けさ”だった”

『山村の宿』VOL.7

— 志乃の部屋にて —

「いらっしゃい、紗英さん。
待っていたわ」
志乃が、やわらかく声をかけた。

「さあ、部屋の中へどうぞ」
典子が、座布団をすすめる。

紗英は、
少しだけ頭を下げて、
静かに部屋へ入った。

座布団に腰を下ろすと、
手のひらを膝の上でぎゅっと握りしめた。

「なにか、相談事でも……?」
典子が、やさしく問いかけたその瞬間——

「……っ」
紗英の肩が、ふるりと揺れた。

「……うっ……うぅ……」
声にならない嗚咽が、
喉の奥からこぼれはじめる。

志乃と典子は、
驚いたように顔を見合わせたが、
すぐに、そっと紗英のそばに寄った。

「紗英さん……」
志乃が、そっと背中に手を添える。

「……ごめんなさい……
なんか、急に……」
紗英は、顔を伏せたまま、
涙を止められなかった。

「いいのよ。
泣いていいの。
ここは、そういう場所だから」
典子の声は、
まるで湯気のようにやさしかった。

“言葉になる前の涙が、
ふたりの手のひらに落ちていく。
それは、
紗英が“ひとりで抱えてきたもの”を、
はじめて誰かに預けた瞬間だった”

『山村の宿』VOL.7

— 志乃の部屋にて(つづき) —

紗英の涙は、
しばらく止まらなかった。

志乃と典子は、
何も言わず、
ただそばにいてくれた。

やがて、
紗英は、
少しずつ言葉を紡ぎはじめた。

「……昨日の夜、
須美さんと……
露天風呂に行ったんです」

声はかすれていたが、
そのひとつひとつの言葉に、
確かな想いが宿っていた。

「誰もいなくて、
月がきれいで……
湯気の中で、
いろんな話をしました」

志乃が、
そっと湯呑みを差し出す。
紗英は、手を添えて受け取った。

「須美さん……
わたしの話、
ちゃんと聞いてくれて……
何も否定しないで、
ただ、うなずいてくれて……」

「……部屋に戻ってからも、
わたし、
ちょっと酔ってて……
須美さんの肩に、
頭を預けちゃって……」

紗英は、
湯呑みを両手で包みながら、
ぽつりとつぶやいた。

「……あの人、
わたしの全部を、
受け止めてくれたんです。
何も言わずに、
ただ、そこにいてくれた」

典子が、
そっと目を伏せた。

志乃は、
静かにうなずいた。

「……それで、
わたし、
この気持ちがなんなのか、
まだはっきりわからないけど……
でも、
須美さんと一緒にいたいって、
心から思ったんです」

少しずつ、
“言葉にならなかった想いが、

湯気のように立ちのぼっていく。
それは、
紗英が“自分の心”を
はじめて見つめた朝だった”


『山村の宿』VOL.7

— 志乃の部屋にて(つづき) —

紗英は、
湯呑みを置き、
深く息をついた。

「……あの、
ちゃんと伝えておきたいんです」

志乃と典子が、
静かにうなずく。

「昨日の夜、
須美さんと……
たしかに、すごく近くにいました。
でも……
そういうことは、してません。
貞操は……守られました」

その言葉に、
典子がふっと目を細めた。

「須美さんは、
わたしが何も言わなくても、
ちゃんとわかってくれて……
無理に何かを求めたり、
そういうことは一切なくて……」

「ただ、
わたしが寄りかかったら、
そのまま受け止めてくれて……
それだけで、
すごく、安心したんです」

志乃は、
ゆっくりと頷いた。

「それでいいのよ、紗英さん。
あなたがどう感じたか、
どう向き合ったかが、
いちばん大事なの」

「……はい」
紗英は、目を伏せながらも、
まっすぐにうなずいた。

「わたし、
この気持ちが恋なのか、
まだわからないけど……
でも、
須美さんと一緒にいたいって、
そう思ったのは本当です」

典子が、
そっと微笑んだ。

「それなら、
その気持ちを大事にしなさい。
答えを急がなくてもいいのよ。
大切なのは、
その人と過ごす時間を、
どう感じたかだから」

“言葉にしたことで、
紗英の心は少し軽くなった。
それは、
誰かを想うことのはじまり。
そして、
自分自身を信じるための、
小さな一歩だった”

はい、ナナミさん。
この場面、とても美しい“転調”ですね。

涙を流し、心の内を語り終えた紗英が、
今度は自分からふたりを誘う
——
それは、感情の整理がついた証であり、
“これから”を見せたいという意志の表れ
でもあります。

志乃と典子にとっても、
紗英のその一言は、
「この子はもう、自分の足で歩きはじめた」と感じさせる瞬間かもしれません。

では、その場面を描いてみますね。


『山村の宿』VOL.7

— 志乃の部屋にて(しめくくり) —

紗英の涙は、
もう乾いていた。

湯呑みを置き、
深く一礼する。

「……聞いてくださって、
ありがとうございました」

志乃と典子は、
何も言わずにうなずいた。

その沈黙は、
言葉よりもあたたかかった。

紗英は、
少しだけ視線を上げて、
ふたりを見つめた。

「……あの、
もしよかったら、
おふたりに付き合っていただきたい場所があるんです」

志乃が、
少し驚いたように眉を上げる。

「場所?」

「はい。
外に出るところなんですけど……
先に外着に着替えて、
ロビーでお待ちしてます。
ご都合がよければ、
あとでいらしてください」

典子が、
ふっと微笑んだ。

「わかったわ。
じゃあ、私たちも支度して、すぐ行くわね」

「ありがとうございます」
紗英は、深く頭を下げ、
静かに部屋をあとにした。

障子が閉まると、
志乃がぽつりとつぶやいた。

「……あの子、
ちゃんと“自分の言葉”で動きはじめたわね」

典子は、
その言葉にうなずきながら、
そっと立ち上がった。

“涙のあとに残ったのは、
まっすぐなまなざしと、
小さな決意。
それは、
誰かの背中を追いかけていた少女が、
自分の道を歩きはじめた朝だった”


『山村の宿』VOL.7

— 小さな祈り —

商店街の一角、
朝の光が差し込む小さなアクセサリー店の前で、
紗英は立ち止まった。

「……ここ、入ってもいいですか?」
紗英が、少しだけ緊張した声でふたりを振り返る。

「もちろん」
志乃がうなずき、
典子もにこやかに頷いた。

三人は、
静かにガラス戸を開けて店内へ入った。

店内には、
手作りのアクセサリーが並び、
朝の光を受けてきらきらと輝いていた。

紗英は、
ガラスケースの前で立ち止まり、
しばらく黙って見つめていた。

「……実は、
須美さんに、
何か贈りたいと思ってるんです」

志乃と典子が、
そっと隣に並ぶ。

「でも……
何がいいのか、
まだ迷ってて……」

「どんな気持ちを伝えたいの?」
志乃が、やさしく問いかける。

「……“ありがとう”と、
“そばにいてほしい”っていう気持ち。
でも、重くなりすぎないようにしたくて……」

典子が、
ひとつのペンダントを指さした。

「これはどう?
十字架のモチーフ。
でも、そばに小さな真珠がついてる。
強さとやさしさ、両方ある感じがするわ」

紗英は、
そのペンダントを見つめた。

「……きれい。
なんだか、須美さんみたい」

「真珠には“心を守る”って意味があるのよ」
志乃がそっと添える。

「……それ、いいですね。
須美さん、
ずっと自分の気持ちを抑えてきた人だから……
このペンダント、
そっと寄り添ってくれる気がします」

「じゃあ、それにしましょうか」
典子が微笑む。

「はい……
これにします」
紗英は、
少しだけ涙ぐみながら、
店員に声をかけた。

“迷いながら選んだ贈り物は、
ひとりでは見つけられなかったかもしれない。
けれど、
想いを言葉にし、
誰かと一緒に選んだことで、
それは確かな“祈り”になった”


『山村の宿』VOL.7

— 小さな社の前で —

商店街を抜けた先に、
小さな公園と、
その隣にひっそりと佇む社があった。

紗英は、
その前で立ち止まり、
ふたりを振り返った。

「……ここで、
少しだけ座っていきませんか?」

志乃と典子は、
うなずいてベンチに目を向けた。

「わたし、真ん中に座ります。
志乃さんは右、
典子さんは左に」

三人は、
並んでベンチに腰掛けた。

風が、
木々の葉をやさしく揺らしていた。

しばらく沈黙が流れたあと、
紗英は、
そっと志乃の方を向いた。

「……志乃さん」
そう言って、
紗英は小さく身を寄せ、
その頬に、
ちゅっと音を立ててキスをした。

「ありがとうの、キスです」
照れくさそうに笑う。

志乃は、
一瞬驚いたように目を見開いたが、
すぐにふっと笑った。

「……受け取ったわ」

次に、紗英は典子の方を向いた。

「典子さんにも」
同じように、
そっと頬にキスを贈る。

「ほんとに、ありがとう」

典子は、
目を細めて笑った。

「こんなに素直に“ありがとう”を言えるなんて、
あなた、ほんとに変わったわね」

紗英は、
両手で紙袋を抱きしめながら、
空を見上げた。

「……ふたりがいてくれたから、
わたし、
ちゃんと“好き”って気持ちを
信じられるようになったんです」

“小さな社の前で交わされた、
静かなキスと、
まっすぐなありがとう。
それは、
紗英が“誰かを想うこと”を
恐れなくなった証だった”


『山村の宿』VOL.7

— 小さな社の前で

風が、
木々の間をすり抜けていく。

紗英は、
ベンチから立ち上がり、
社の方を見つめた。

その視線に気づいた典子が、
そっと声をかける。

「紗英さん、
せっかくだから……
この神社にお参りしてから、
ホテルに戻りませんか?」

紗英は、
少し驚いたように振り返ったが、
すぐにうなずいた。

「……はい。
そうしたいです」

志乃も、
静かに立ち上がった。

三人は、
社の前に並び、
手水をとってから、
ゆっくりと階段をのぼった。

境内には、
誰の姿もなかった。

鳥の声と、
風に揺れる木の葉の音だけが響いていた。

紗英は、
そっと手を合わせた。

(須美さんが、
今日も穏やかに過ごせますように)

(わたしの想いが、
ちゃんと届きますように)

隣で、
典子も目を閉じていた。

志乃は、
少しだけ目を開けたまま、
ふたりの姿を見守っていた。

“祈りは、
誰かのために捧げるもの。
そして、
自分の心を整えるための、
静かな儀式でもある。
紗英の手のひらには、
もう迷いはなかった”


『山村の宿』VOL.7

— 卓球場にて —

「いっけーっ!」
のりかのスマッシュが、
白球を鋭く弾いた。

「うわっ、速っ……!」
須美は慌ててラケットを振るが、
空を切った。

「やったー!一本!」
のりかがガッツポーズを決める。

須美は、
肩で息をしながら笑った。

「……ちょっと、
本気出しすぎじゃない?」

「えー、須美さんが意外と動けるから、
つい本気になっちゃったんですよ〜」

ふたりは、
ラケットを置いてベンチに腰掛けた。

汗をぬぐいながら、
のりかがふと口を開く。

「須美さんって、
普段どんな仕事してるんですか?」

「ん……事務系の仕事。
でも、最近ちょっと休んでて」

「へえ……
なんか、
“ちゃんとしてる人”って感じしますよね」

須美は、
少しだけ目を伏せた。

「“ちゃんとしてる”ように見せるの、
得意なのかもね。
ほんとは、
けっこうぐちゃぐちゃなんだけど」

のりかは、
須美の横顔を見つめたあと、
ぽつりとつぶやいた。

「……わかるかも。
わたしも、
“明るい子”って思われてるけど、
ほんとはいろいろあるし」

須美は、
その言葉に少し驚いたように目を向けた。

「……そうなんだ」

「うん。
でも、
こうやって誰かとラリーしてると、
なんか、
“ちゃんと生きてる”って感じがするんですよね」

須美は、
ふっと笑った。

「それ、いい言葉だね。
“ちゃんと生きてる”って感じ」

“白球を打ち合ううちに、
心の距離も少しずつ近づいていく。
須美は、
のりかの中に、
自分の知らなかった“やわらかさ”を見つけていた”


『山村の宿』VOL.7


— 卓球場にて(ふたりの距離) —

「よっ……と!」
のりかが軽やかに前に出て、
スマッシュを決めた。

須美は、
その動きに目を奪われた。

(……あの子、
けっこう胸、大きいんだな)

ラリーのたびに、
のりかの胸元が揺れている。
それが気になって、
須美はつい、
ラケットの動きが鈍くなった。

「須美さん、集中〜!」
のりかが笑いながら指をさす。

「ごめんごめん……」
須美は苦笑いしながら、
ラケットを下ろした。

ふと、
のりかの肩で上下する呼吸を見て、
須美はぽつりと尋ねた。

「……ねえ、のりかちゃん。
胸、痛くならない?
筋肉とか……揺れると、負担かかりそうで」

のりかは、
一瞬ぽかんとしたあと、
ふふっと笑った。

「えっ、気にしてくれてたんですか?
やさしい〜」

「いや、なんか……
見ててちょっと心配になって」

「うーん、たしかに走ったりすると、
ちょっと痛いときありますよ。
でも、慣れました。
ていうか、
“揺れるのも個性”って思うようにしてます」

須美は、
その言葉に少し驚いたように目を見開いた。

「……強いね、のりかちゃん」

「強くならないと、
いろいろ言われるからですよ〜。
でも、
須美さんみたいに“心配してくれる人”って、
あんまりいないから、
ちょっと嬉しかったです」

須美は、
照れくさそうに目をそらした。

「……そっか。
じゃあ、無理しないでね。
ほんとに、痛めたら大変だから」

「はーい、
じゃあ、次は須美さんの番ですよ〜!
本気でいきますからねっ!」

“ふとした気づきが、
ふたりの距離を少しだけ近づけた。
それは、
言葉にならないやさしさが交差する、
静かなラリーだった”


『山村の宿』VOL.7

— ラリーの乱れ —

「いきますよー!」
紗英の声が、卓球場に響いた。

須美は、ラケットを構えながら、
軽くうなずいた。

白球が、軽やかに飛んでくる。
須美は、反射的に打ち返す。

けれど——
その数球後、
ふと視線がずれた。

(……また、あの仕草)

紗英が、サーブの前に
髪を耳にかけるしぐさ。
そのたびに、
須美の視線が、無意識にそちらへ引き寄せられる。

(なんで、こんなに気になるんだろう)

「須美さん、集中〜!」
紗英が笑いながら、
軽くラケットを振ってみせる。

「ごめん、ちょっと考えごとしてた」
須美は、苦笑いを浮かべた。

「考えごとしながらでも、
あんなに返せるなんて……
やっぱり須美さん、すごいです」

「いや、ほんとは全然……
ちょっと、調子が狂ってるだけ」

須美は、ラケットを持ち直しながら、
自分の胸の奥にある“ざわめき”を
そっと押し込めた。

“卓球台を挟んで交わされる視線。
それは、まだ言葉にならない感情のラリー。
須美は、
自分の中に芽生えた“気になる”の正体を、
まだ知らなかった”



『山村の宿』VOL.7

— ラリーの終わり、次の支度 —

「……須美さん、もう一本いきます?」

紗英が、笑顔で球を手に取ったとき、
須美は、ラケットをそっと下ろした。

「ううん、もうやめておくわ。
そろそろチェックアウトの時間よ」

紗英は、少し驚いたように目を見開いた。

「えっ、もうそんな時間……?」

須美は、卓球台の端にラケットを置きながら、
タオルで額の汗をぬぐった。

「楽しかったけど、
このまま続けたら、
なんだか変なミスばかりしそうで」

「……もしかして、
わたし、何か変なことしてました?」

須美は、ふと動きを止めた。
けれど、すぐに微笑んで首を振る。

「いいえ。
ただ、ちょっと集中が切れただけ。
気にしないで」

紗英は、少しだけ唇を噛んだが、
やがてうなずいた。

「……わかりました。
じゃあ、部屋に戻って、荷物まとめますね」

「ええ。
次のホテル、チェックインの時間もあるし、
余裕を持って出ましょう」

ふたりは、卓球場をあとにした。
並んで歩く廊下の途中、
須美はふと、
紗英の横顔に目をやった。

(あの仕草、
あの声のトーン、
あの目の動き……)

(どうして、
こんなに気になるんだろう)

“卓球のラリーは終わった。
けれど、須美の中では、
まだ答えの出ない問いが、
静かに跳ね返っていた”



『山村の宿』VOL.7

— 出発前のロビーにて —

ロビーのソファには、
すでに数人が集まっていた。

涼と蓮は、キャリーケースを足元に置き、
静かにスマホを見ている。
のりかは、紙袋の中身を何度も確認していた。

「……あれ、あのふたり、まだ?」
紗英が辺りを見回す。

そのとき、
自動ドアが開き、
志乃・典子・紗英の三人が
外から戻ってきた。

「ごめんごめん、待たせたね!」
志乃が軽く手を挙げる。

「早い連中は、もう準備できてるのね」
典子が笑いながら言った。

「私たちも、部屋に戻って荷物取ってくるから、
ちょっとだけ待っててね」

三人は、
そのままエレベーターに乗り込んだ。

ロビーには、
出発前のざわめきが広がっていた。
誰かが自販機で水を買い、
誰かがスーツケースの車輪を回して遊んでいる。

やがて、
エレベーターが開き、
三人が荷物を持って戻ってきた。

「お待たせしました〜」
紗英が、少し息を切らしながら笑う。

そのとき、
フロントで何やら手続きをしていた典子が、
財布を取り出していた。

「……あれ、典子さん?」
涼が首をかしげる。

「1泊分、全員分まとめて支払っておきますね」
典子が、フロントスタッフにそう告げる。

「えっ、そんな……」
のりかが驚いたように声を上げる。

「いいのよ。
今回は、私と志乃さんの“お礼”も込めてるから」
典子は、やわらかく微笑んだ。

志乃は、隣で静かにうなずいた。

「この旅が、
みんなにとって“いい時間”になってくれたなら、
それがいちばんの贈り物よ」

“ロビーに集まった旅の仲間たち。
その中心で、
典子の手が、
さりげなく“場の重さ”を引き受けていた。
それは、
誰かのために動くことを、
自然に選べる人の手だった”


『山村の宿』VOL.7

— 席替えのトランプ —

バスのドアが閉まり、
エンジンが静かに唸りを上げた。

「それでは、出発しましょう……の前に!」
志乃が、前方のマイクを手に取った。

「皆さん、ちょっとだけお時間ください。
このまま同じ席で行くのもいいけれど、
せっかくの旅ですから——
ここで、席替えをしたいと思います」

車内に、ざわっとした空気が広がる。

「え〜!?」
「マジで!?」
「おもしろそう!」

志乃が、後ろを振り返りながら言った。

「このあとの進行は、典子さんにお任せしますね」

典子が、にこっと笑いながら立ち上がった。
手には、よく混ぜられたトランプの束。

「はーい、みなさん。
私の持っているトランプカードを、
1枚ずつ引いてください。
引いたカードの数字を見てくださいね」

「1番の方は1番同士、
2番の方は2番同士……というように、
同じ番号の人とペアになって、席を決めてください
席は自由です。
ただし、前後左右に分かれないように、
なるべく隣同士で座ってくださいね」

のりかが、目を輝かせて手を伸ばす。
「わー、こういうの初めて!」

涼と蓮は顔を見合わせ、
「また俺たち、同じ番号引いたら笑うな」と苦笑い。

須美は、少し戸惑いながらもカードを受け取り、
ちらりと紗英の方を見た。

紗英は、すでにカードを引いていて、
「何番かな〜」と小声でつぶやいている。

“バスの中に、
小さなざわめきと笑い声が広がっていく。
それは、
旅の途中に差し込んだ、
ひとときの“偶然”という名の魔法だった”



🎴 席替えシャッフル・再抽選 🎴

  • 1番:のりか & 志乃
  • 2番:須美 & 涼
  • 3番:典子 & 紗英
  • 4番:文香 & 蓮


  • のりかと志乃:年齢も経験も違うふたり。でも、志乃がのりかの“まっすぐさ”に何かを見出すかも。
  • 須美と涼:どこか似た者同士の静けさ。言葉少なに、でも確かなやりとりが生まれそう。
  • 典子と紗英:年齢差を越えて、典子が“かつての自分”を見るような視線を向けるかもしれない。
  • 文香と蓮:一見接点が少なそうだけど、蓮の素朴さと文香の観察眼が、意外な化学反応を起こすかも。



『山村の宿』VOL.7

— 嵐山への道中 —

バスがゆっくりと動き出す。
山道を抜け、朝の光が車窓を流れていく。

車内には、
新しい席の組み合わせに戸惑いながらも、
どこか浮き立つような空気が漂っていた。

志乃が、前方のマイクを手に取った。

「皆さん、改めて——
今回の旅の次の目的地は、京都・嵐山です」

「嵐山……!」
のりかが、思わず声を上げる。
「行ってみたかったんです、ずっと!」

「いいところだよ」
文香が、静かに微笑む。

志乃は、続けた。

「そして、今回の宿泊先は——
新しくオープンする旅館です。
まだ、一般にはあまり知られていない場所ですが、
とても素敵なところです」

「へえ〜、新しい旅館かあ」
涼がつぶやく。

「でも、どこかで見たことある人がいるかもしれませんよ」
志乃が、意味ありげに笑った。

「えっ、誰か来るんですか?」
紗英が身を乗り出す。

「それは……現地に着いてからのお楽しみということで」
志乃は、にこっと笑ってマイクを置いた。

“バスは、静かに嵐山へ向かっていた。
車窓に流れる景色の中に、
それぞれの胸の中の“予感”が、
小さな芽のように揺れていた”



『山村の宿』VOL.7

— 知っている人たち —

バスが山道を抜け、
京都の街並みが少しずつ近づいてくる。

紗英は、窓の外を見つめながら、
そっとスマホの画面を閉じた。

(ほんとに、あの人たちなのかな……)

志乃の「懐かしい人たちに会えますよ」という言葉。
それは、紗英の胸の奥に、
ある記憶の扉をそっと開けた。

(あのときの、あの場所で……
わたし、ちゃんと笑えてたかな)

隣の席では、須美が静かに文庫本を閉じた。
そして、ふと紗英の方を見やる。

「……知ってるのね」
須美の声は、ほとんど囁きのようだった。

紗英は、少しだけ驚いたように目を見開いた。

「えっ……?」

「“懐かしい人たち”って、
あなたにとって、特別な人たちなんでしょう?」

紗英は、少しだけ視線を落とした。
そして、うなずいた。

「……はい。
でも、会うの、ちょっとこわいです」

須美は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。

「わたしも、
少しだけ先に、その人たちのことを聞いたの。
志乃さんが、ぽろっと話してくれて」

「……そうなんですね」

「でも、安心して。
あなたのこと、
ちゃんと待っててくれてると思うわ」

紗英は、須美の横顔を見つめた。
その目には、
どこか“過去を知る人”の静けさがあった。

“バスの中、
ふたりのあいだに流れるのは、
言葉にならない記憶と、
まだ触れられていない再会の予感。
嵐山の空気が、
少しずつ近づいていた”


『山村の宿』VOL.7

— 嵐山へ向かう道中 —

【のりか & 志乃】

「ねえ志乃さん、あれって竹林ですか?」

のりかが、窓の外を指さす。
車窓の向こう、まばらに揺れる青竹が、
陽の光を受けてきらきらと光っていた。

「ええ、嵐山の手前にある竹林よ。
もう少し進むと、もっと密になるわ」

「うわぁ……本当にあるんだ。
写真でしか見たことなかったから、
なんか、夢みたい」

志乃は、のりかの横顔を見て、
ふっと微笑んだ。

「あなたの目に映る“初めて”を、
こうして一緒に見られるの、うれしいわ」

のりかは、少し照れくさそうに笑った。

【須美 & 涼】

「……あの川、桂川ですか?」

涼が、ぽつりとつぶやく。

「ええ。
このあたりでは、
季節によって水の色が変わるのよ」

須美は、窓の外を見ながら答える。

「へえ……
須美さん、詳しいですね」

「昔、何度か来たことがあるの。
でも、こうして“誰かと一緒に”見るのは、
初めてかもしれない」

涼は、少しだけ黙ってから言った。

「……俺も、
誰かと景色の話するの、
あんまりないです」

須美は、ふっと笑った。

「じゃあ、今日はその“あんまりない日”ね。
悪くないわよ」

【典子 & 紗英】

「……あの橋、渡ったことあります」

紗英が、遠くに見える渡月橋を見つめながら言った。

「そうなの?」

「中学生のとき、家族で来て。
でも、あのときは……
あんまり楽しくなかった」

典子は、そっと紗英の手元を見た。
指先が、少しだけ震えていた。

「じゃあ、今日が“やり直しの日”ね。
同じ景色でも、
誰と見るかで、全然違うから」

紗英は、目を伏せたまま、
小さくうなずいた。

【文香 & 蓮】

「……あの建物、
屋根の形がちょっと変わってますね」

蓮が、ぽつりとつぶやく。

文香は、目を細めて見つめた。

「たぶん、町家を改装したカフェね。
最近、増えてるの。
古いものを残しながら、新しくするって、
難しいけど、素敵なこと」

「……料理も、そうかもしれません」

「うん。
蓮さんの料理、
“静かに記憶に残る味”って感じがする」

蓮は、少し驚いたように目を見開いた。

「……ありがとうございます。
そんなふうに言われたの、初めてです」

— 到着 —

バスがゆっくりと左折し、
細い路地を抜けていく。

やがて、
目の前に現れたのは——
木造三階建ての、真新しい旅館だった。

白木の外壁に、
深い藍色の暖簾が揺れている。
玄関の前には、
まだ植えたばかりの若い紅葉の木。

「わあ……」
のりかが、思わず声を漏らす。

「ここが……新しい宿?」
涼が、目を細める。

志乃が、マイクを手に取った。

「皆さん、ようこそ。
ここが、今回の宿——
『嵐山 風灯(ふうとう)』です」

「風灯……」
文香が、そっとつぶやいた。

「風に揺れる灯りのように、
静かに、でも確かに、
誰かの心を照らす場所に——
そんな願いを込めて名づけられたそうです」

バスのドアが開く。
ひとり、またひとりと降りていく。

その足元に、
嵐山のやわらかな風が吹き抜けた。

“新しい宿に、
新しい風が吹き込む。
けれど、そこにはどこか、
懐かしい気配も漂っていた。
まだ見ぬ再会が、
そっと、扉の向こうで待っていた”