嵐山の奥、桜咲く川辺にひっそりと佇む三階建ての和風旅館。 ここで、紗英と須美の“これから”が始まります。 あなたも、物語の続きを見届けに来ませんか?
『山村の宿』VOL.8
— 嵐山 風灯(ふうとう) ロビーにて —
—
バスのドアが開き、
ひとり、またひとりと降りていく。
—
足元に広がるのは、
白砂が敷かれた小さな前庭。
若い紅葉の木が、
風にそっと揺れていた。
—
「……空気が、やわらかい」
須美が、ぽつりとつぶやく。
—
「うん。
なんか、音が静かですね」
のりかが、耳を澄ませるように言った。
—
一行は、ゆっくりと玄関をくぐり、
旅館のロビーへと足を踏み入れた。
—
そこには、
木の香りがほんのりと漂っていた。
白木の柱、
手漉き和紙の照明、
そして、奥には小さな囲炉裏の間。
—
「……ここ、落ち着く」
紗英が、思わず声を漏らす。
—
「新しいのに、
どこか懐かしい感じがするわね」
典子が、ロビーの天井を見上げながら言った。
—
「“風灯”って、
ほんとにぴったりの名前だな」
涼が、低くつぶやく。
—
そのとき——
奥の障子が、すっと開いた。
—
「いらっしゃいませ。
ようこそ、お越しくださいました」
—
現れたのは、
見覚えのある顔だった。
—
紗英が、はっと息をのむ。
須美は、そっとその横顔を見つめる。
—
「……やっぱり」
紗英が、かすれた声でつぶやいた。
—
“ロビーに集まった一行の前に、
“懐かしい誰か”が立っていた。
それは、
旅の終わりではなく、
新しい物語の扉が開く音だった”
—
『山村の宿』VOL.8
— 静かな決意 —
—
「さー、みなさん。荷物を各部屋に置いてきてください。
ペアは1日目のバス席と同じでいいです。
鍵は典子からもらってください」
志乃の声が、バスの外にやわらかく響いた。
—
「30分後に、ロビーに集合です」
典子が続けると、
のりかが「はーい!」と元気よく返事をして、
一行はそれぞれの部屋へと散っていった。
—
—
— 30分後、ロビー —
—
皆が再び集まったロビーには、
木の床に差し込む午後の光と、
どこか期待を含んだ静けさが漂っていた。
—
志乃が前に出て、
ふたりの名前を呼ぶ。
—
「この旅館は、
紗英さんと須美さんが、
これからスタッフとして働く場所になります。
そして——
この“風灯”の女将は、紗英さんです」
—
驚きと拍手の中で、
紗英は一歩前に出て、深く頭を下げた。
—
「本日より、女将として務めさせていただきます。
どうぞ、よろしくお願いいたします」
—
そのあと、のりこがふっと前に出て、
少しだけ声を張った。
—
「紗英さん。志乃さんは“お客さま”として扱うのよ。いいわね?」
—
ロビーに、くすくすと笑いが広がる。
—
紗英は、少し照れながらも、
しっかりとした声で答えた。
—
「……かしこまりました。
志乃様、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」
—
—
— 皆が部屋に戻ったあと —
—
ロビーに残ったのは、
紗英、志乃、典子の三人だけだった。
—
紗英は、少し緊張した面持ちで、
ふたりの前に立った。
—
「志乃さん、典子さん……
少しだけ、お時間をいただけますか?」
—
「もちろん」
志乃がうなずき、
典子も「どうしたの?」と椅子をすすめる。
—
囲炉裏の間に移動し、
湯気の立つ茶碗を前に、
紗英は両手を膝に置いて、深く頭を下げた。
—
「今夜の宴会のときに……
お願いしたいことがあります」
—
ふたりが静かに耳を傾ける。
—
「……須美さんに、
“公開プロポーズ”をしたいんです」
—
志乃が、そっと目を見開き、
典子は一瞬だけ驚いたあと、やさしく微笑んだ。
—
「それで……」
紗英は、そっと紙袋を取り出す。
—
「この前、あのお土産屋さんで買ったペンダントを、
須美さんに渡して、
わたしの手で首にかけてあげたいんです。
ちゃんと、言葉にして、
みんなの前で伝えたいんです」
—
「……なるほど」
典子が、静かにうなずいた。
—
「演出は、私たちに任せて。
あなたは、想いを伝えることに集中して」
—
志乃も、やわらかく微笑んだ。
—
「音楽も、照明も、
ちゃんと整えておくわ。
須美さんには、気づかれないようにね」
—
「ありがとうございます……」
紗英は、胸に手を当てて深く頭を下げた。
—
“言葉にすることは、
未来を選ぶこと。
紗英の願いは、
志乃と典子の手で、
そっと舞台へと運ばれていく”
『山村の宿』VOL.8
— 白い装い —
—
帳場の奥、
誰もいない時間を見計らって、
紗英はそっと引き出しを開けた。
—
中には、
一通の封筒と、
白い布の見本が丁寧に折りたたまれて入っていた。
—
「……間に合うって言ってた」
紗英は、小さくつぶやいた。
—
それは、
貸衣装屋に特別に頼んでいた“白の洋装”。
上から下まで、
ブラウスもジャケットも、パンツも、
すべて真っ白で揃えた一式。
—
「女将としての私じゃなくて、
“わたし”として、
須美さんの前に立ちたくて……」
—
厨房での仕込み、帳場の計算、
客室の点検——
日々の仕事をこなしながら、
その合間に、
こっそりと準備を進めていた。
—
須美には、まだ何も言っていない。
言えなかった。
—
「驚くかな……
笑うかな……
でも、ちゃんと見てほしい」
—
その装いは、
“誰かのために着る服”ではなく、
“自分の想いを伝えるための服”。
—
“白は、始まりの色。
紗英が選んだその装いは、
女将としてではなく、
ひとりの人間として、
須美の前に立つための、
静かな決意だった”
『山村の宿』VOL.8
— 舞台のはじまり —
—
宴会は、
笑いと湯気と、
ほろ酔いの空気に包まれながら、
ゆっくりと終わりに近づいていた。
—
そのとき——
志乃が、帳場の奥にいる紗英を呼びに来た。
—
「紗英さん」
その声は、
いつになくきっぱりとしていた。
—
「あれの準備をしなさい。
いいですね?」
—
まるで、
上司が部下に指示を出すような、
きっぱりとした口調だった。
—
紗英は、
一瞬だけ目を見開いたが、
すぐにうなずいた。
—
「……はい」
—
志乃は、
和室宴会場の奥を指さした。
—
「向こう側で待っていなさい。
合図があったら、入ってきて」
—
「……わかりました」
紗英は、
そっと立ち上がり、
白い衣装の入った包みを抱えて、
静かに奥の控え室へと向かった。
—
—
— そのころ、宴会場 —
—
典子が、
湯飲みを手にしながら、
ふと須美の方を見た。
—
「須美さん、
ちょっとこちらへ。
上座のほうに来ていただけますか?」
—
「えっ……?
私が……?」
—
「はい。
ちょっとした“締めのご挨拶”をお願いしたくて。
この旅館のこれからのことも含めて」
—
須美は、
少し戸惑いながらも、
周囲の「行って行って!」という声に押されて、
ゆっくりと席を立った。
—
“宴の終わりに、
ふたりはそれぞれ、
舞台の両端に立たされていた。
まだ互いの姿は見えない。
けれど、
その空気は、
もう確かに変わりはじめていた”
『山村の宿』VOL.8
— 白の中心へ —
—
宴会場の空気が、
ふと静まった。
—
その瞬間、
どこからともなく、
やわらかな音楽が流れ始めた。
—
琴の音に似た旋律。
けれど、どこか現代的なリズムも混じっている。
懐かしさと新しさが交差するような、
不思議な調べだった。
—
その音に導かれるように、
和室の奥の戸が、すうっと開いた。
—
そこに立っていたのは——
白のドレスに身を包んだ紗英だった。
—
真っ白なドレス
足元まで揃えられたその装いは、
まるで光をまとうように、
宴会場の空気を一変させた。
—
誰もが息をのんだ。
—
紗英は、
ゆっくりと、
一歩ずつ中央へと歩み出す。
—
その姿は、
女将ではなく、
ひとりの人間としての紗英だった。
—
そして——
典子が、
須美のそばに立った。
—
「須美さん」
その声は、
どこか祈りのように、静かだった。
—
「こちらへ。
中央にお立ちください」
—
「えっ……?」
須美が戸惑う。
—
「大丈夫。
これは、あなたのための時間です」
—
典子は、
そっと須美の手を取り、
まるで神前に導く巫女のように、
ゆっくりと中央へと歩き出した。
—
須美は、
何が起きているのか分からないまま、
けれど、
その空気の重なりに身を任せていた。
—
“音楽が、
空間をやさしく包み込む。
白い装いの紗英と、
手を引かれて立つ須美。
ふたりの間に、
言葉よりも先に、
何かが流れはじめていた”
『山村の宿』VOL.9
— 白い誓い —
—
音楽が、
やさしく流れ続けていた。
—
宴会場の中央。
白いドレスの紗英が、
ゆっくりと須美の方へ向き直る。
須美は、
まだ少し戸惑ったまま、
けれど逃げることなく、
まっすぐに紗英を見つめていた。
—
紗英は、
胸元から細長い白い箱を取り出した。
—
その手が、
わずかに震えていた。
—
けれど、
その声は、
はっきりと響いた。
—
「……須美さん」
—
「私と——
同性パートナーシップ……
いや、ファミリーパートナーシップを結んでください」
—
須美の目が、
ふっと見開かれる。
—
「プライベートも、仕事も、
これからずっと一緒に歩んでください」
—
紗英は、
そっと箱のふたを開けた。
—
中には、
あのとき選んだ、
小さな銀のペンダントが静かに光っていた。
—
「……これ、受け取ってください」
—
その言葉とともに、
紗英は、
両手で箱を差し出した。
—
宴会場は、
誰一人として声を出さなかった。
—
ただ、
その場にいた全員が、
ふたりの間に流れる空気を、
息をひそめて見守っていた。
—
“言葉は、
まっすぐだった。
震える手も、
迷いのない目も、
すべてが、
紗英の“本当”だった。
それは、
誰かの許しを求めるものではなく、
ただ、
ひとりの人間が、
もうひとりの人間に向けた、
まっすぐな願いだった”
『山村の宿』VOL.8
— 返事 —
—
紗英の手の中、
白い箱の中で、
銀のペンダントが静かに光っていた。
—
「……これ、受け取ってください」
—
その言葉が落ちた瞬間、
須美は、
ふっと息をのんだ。
—
そして——
その場に、
崩れ落ちるように膝をついた。
—
「……っ……」
声にならない嗚咽が、
喉の奥からこぼれた。
—
肩が震え、
目からは、
止めようのない涙があふれ出す。
—
誰も、声をかけなかった。
誰も、動かなかった。
—
ただ、
須美のその姿を、
紗英はまっすぐに見つめていた。
—
そして——
須美は、
顔を上げた。
—
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、
それでも、
まっすぐに紗英を見た。
—
「……うん」
—
それだけだった。
それだけで、
すべてが伝わった。
—
「……うん……」
もう一度、
今度は少し笑いながら、
須美はうなずいた。
—
紗英は、
そっと膝をつき、
須美の手を取り、
ペンダントを、
その首にかけた。
—
“言葉にならない返事ほど、
深く、強く、
心に届くものはない。
須美の「うん」は、
世界でいちばんやさしい約束だった”
『山村の宿』VOL.8
— 記者会見、風灯スタイル —
—
結婚行進曲が静かにフェードアウトし、
ふたりが手をつないだまま立っていると——
—
「はいっ!おふたりに質問です!」
のりかが、手を高く挙げて叫んだ。
—
「このたびのご決断、
どちらから切り出されたんでしょうか!?」
—
会場が、どっと笑いに包まれる。
—
「えっ、えっと……」
紗英が戸惑いながらも、
須美の方を見て、
「……わたし、です」と答えると——
—
「おお〜〜〜〜っ!!」
「やっぱり女将からか〜!」
「かっこいい〜〜〜!!」
—
今度は文香が、
スマホを構えながら言った。
—
「おふたりの馴れ初め、
もう一度詳しく教えてください!」
—
須美は、顔を真っ赤にしながら、
「ちょ、ちょっと待って……!」と笑い、
紗英の腕に顔をうずめた。
—
「かわいい〜〜〜!!」
「これは明日の朝刊に載るわ〜!」
—
涼が、静かにカメラを構えながら、
「じゃあ、記念に“指輪交換”風のポーズを」と言うと、
典子がすかさず「ペンダントだから!」とツッコミを入れる。
—
志乃は、
その様子を見ながら、
ふっと笑ってつぶやいた。
—
「……まるで、
芸能人の記者会見ね」
—
“祝福の場は、
いつしか記者会見のような熱気に包まれていた。
けれど、
そこにあったのは、
好奇心ではなく、
心からの「よかったね」が重なった、
ほんとうの“お祝い”だった”
『山村の宿』VOL.8
— キッス! キッス! —
—
フラッシュの嵐が少し落ち着いたころ、
誰かが、ぽつりと言った。
—
「……キッス?」
—
そのひとことが、
まるで火種のように広がっていく。
—
「キッス! キッス!」
「やっちゃえ〜〜〜!」
「ここまで来たら、もうやるしかないでしょ〜!」
—
のりかが両手でハートを作りながら叫び、
文香が「記念に一枚、ね?」とカメラを構える。
—
須美は、
顔を真っ赤にして、
「ちょ、ちょっと待って……!」と紗英の腕をつかんだ。
—
紗英も、
耳まで赤くなりながら、
「えっ、ここで……!?」と戸惑う。
—
けれど——
そのとき、
志乃が、静かに言った。
—
「……ここで、いいと思うわよ」
—
その声に、
場がふっと静まる。
—
紗英は、
須美の手をそっと握り、
目を合わせた。
—
「……しても、いい?」
—
須美は、
涙の跡を残したまま、
小さくうなずいた。
—
そして——
ふたりは、
そっと額を寄せ合い、
やさしく、短く、キスを交わした。
—
その瞬間——
—
「きゃああああああああ!!!」
「最高〜〜〜〜〜〜!!!」
「はい、今の撮れた!!」
—
再び、
フラッシュの嵐が巻き起こった。
—
“それは、
派手でも、演出でもなかった。
ただ、
ふたりの「はい」の続きとして、
ごく自然に生まれた、
小さな、小さな、
永遠のしるしだった”
『山村の宿』VOL.8
— 今夜だけの、特別な階 —
—
宴がひと段落し、
ふたりが控え室へと下がったあと。
—
志乃は、
そっと立ち上がり、
典子と目を合わせた。
—
「……ちょっと、いいかしら」
志乃の声に、
のりか、文香、涼、のりこが集まってくる。
—
「なになに? 二次会の相談?」
のりかが笑いながら言うと、
志乃は、ふっと微笑んで言った。
—
「今夜はね——
ふたりきりのフロアにしてあげましょうよ」
—
「えっ?」
文香が目を丸くする。
—
「この旅館、
二階と三階は客室が分かれてるでしょ。
私たち、今夜は三階に移動しましょう。
荷物は、あとでまとめて運べばいいわ」
—
典子が、すぐにうなずいた。
—
「いいわね、それ。
ふたりに、ちゃんと“夜”をあげましょう」
—
のりかが、
ぱっと笑って手を叩いた。
—
「さっすが志乃さん!
さすが大人の気配り〜〜〜!」
—
涼も、静かにうなずいた。
—
「……あのふたりには、
今夜くらい、
誰にも邪魔されない時間が必要だと思う」
—
「じゃあ、私たちは三階ね」
文香が言うと、
のりこが「布団の配置、私がやるよ」と立ち上がる。
—
志乃は、
ふたりがいない宴会場を見渡しながら、
そっとつぶやいた。
—
「……今夜だけは、
この“風灯”の二階を、
ふたりの家にしてあげましょう」
—
“祝福は、
派手な言葉だけじゃない。
静かに場所を譲ることも、
そっと背中を押すことも、
それは立派な「おめでとう」だった”
『山村の宿』VOL.8
— 朝の光、ふたりの部屋 —
—
朝。
山の空気は、
ひんやりと澄んでいた。
—
旅館の二階、
東向きの窓から、
やわらかな光が差し込んでいる。
—
障子越しに揺れる木漏れ日が、
畳の上に、
淡い模様を描いていた。
—
その光の中で——
ふたりは、並んで座っていた。
—
まだ布団は敷かれたまま。
けれど、
もう眠気はどこかへ消えていた。
—
須美は、
湯呑みを両手で包みながら、
ぽつりとつぶやいた。
—
「……夢じゃなかったんだね」
—
紗英は、
笑ってうなずいた。
—
「うん。
ちゃんと、目が覚めても、
ここに須美さんがいる」
—
須美は、
少し照れたように笑って、
紗英の肩にもたれた。
—
「……なんか、
すごく静かだね。
みんな、まだ寝てるのかな」
—
「ううん」
紗英は、
そっと障子を開けて、廊下をのぞいた。
—
「……誰もいない。
たぶん、
みんな、気をつかってくれたんだと思う」
—
須美は、
目を丸くして、
それから、ふっと笑った。
—
「……志乃さんたち、
やさしいね」
—
「うん。
ほんとに、ありがたいね」
—
ふたりは、
しばらく黙って、
朝の光を見つめていた。
—
“夜が明けた。
けれど、
ふたりの間に流れる空気は、
まだ夢の続きのように、
やわらかく、あたたかかった”
『山村の宿』VOL.8
— 知らんふりの朝 —
—
朝食の時間。
一階の食事処には、
湯気と味噌の香りが立ちのぼっていた。
—
「おはようございまーす」
のりかが元気に入ってくると、
文香と涼も続いて席につく。
—
そこへ——
紗英と須美が、並んで現れた。
—
「おはようございます」
「……おはようございます」
—
ふたりとも、
目がほんのり赤く、
どこか眠たげな顔。
—
けれど、
背筋はぴんと伸びていて、
表情はいつも通りを装っている。
—
のりかが、
ちらっと須美の目元を見て、
にやりと笑いかけた。
—
「……あれ?
なんか、目、赤くない?」
—
「えっ? そ、そうかな……?」
須美が、あわてて目をこする。
—
「うん、ちょっと寝不足かなって」
文香が、やさしくお茶を差し出す。
—
「……昨夜は、いろいろあったからね」
涼が、静かに言うと、
典子が「そうね」と笑ってうなずいた。
—
志乃は、
湯呑みを手にしながら、
ふたりに目を向ける。
—
「……まあ、
“知らんふり”って、
ときには最高の祝福になるのよ」
—
紗英と須美は、
顔を見合わせて、
同時にふっと笑った。
—
「……ほんとに、ありがとうございます」
紗英が、
少しだけ声を震わせながら言った。
—
“目が赤くても、
眠そうでも、
ふたりは、
何もなかった顔で朝を迎えた。
けれど、
その沈黙の中に、
すべてが詰まっていた”
『山村の宿』VOL.8
— 引き継ぎの朝 —
—
朝食が終わり、
荷物をまとめた一行が、
玄関に集まっていた。
—
外は、
冬の光がやわらかく差し込み、
山の空気が澄んでいる。
—
志乃が、
最後に帳場の前で立ち止まり、
紗英と須美を見つめた。
—
「……あなたたちふたりは、
このまま、ここに残りなさい」
—
紗英と須美が、
同時に顔を上げる。
—
「オープンまで、
まだやることがたくさんあるでしょ。
帳場の整備、備品の確認、
近所への挨拶回りも」
—
「でも……」
須美が言いかけると、
志乃は手を上げて制した。
—
「オープン当日は、
私たち全員、手伝いに来るから。
そのときは、
ちゃんと“お客さま”として扱ってもらうわよ?」
—
のりかが「またそれ〜!」と笑い、
典子が「でも本気よ」とウインクする。
—
文香は、
ふたりに小さな包みを手渡した。
—
「これ、みんなから。
開けるのは、落ち着いてからね」
—
涼は、
ふたりに深く一礼した。
—
「……また来ます。
そのときは、
“風灯のふたり”として迎えてください」
—
のりこが、
「じゃあねー!がんばってねー!」と手を振り、
みんながバスへと向かっていく。
—
最後に、
志乃がもう一度、ふたりの前に立った。
—
「……ここからは、
あなたたちの旅館よ。
自分たちのやり方で、
ちゃんと灯していきなさい」
—
そう言って、
志乃はふたりの肩に手を置き、
静かにうなずいた。
—
そして、
何も言わずに背を向け、
バスへと乗り込んだ。
—
—
バスのドアが閉まり、
エンジンがかかる。
—
ふたりは、
玄関先に立ったまま、
その背中を見送った。
—
“誰かが去ることで、
誰かの時間が始まる。
志乃の背中は、
ふたりにとっての“はじまりの合図”だった”
『山村の宿』VOL.8
— 引き継ぎの言葉 —
—
バスのドアが閉まる直前、
志乃はふと振り返り、
ふたりに向かって言った。
—
「それから——」
—
紗英と須美が、
思わず姿勢を正す。
—
「水曜日に一度、荷物をまとめて、
ちゃんと引っ越しなさい。
この宿に、
あなたたちの生活を“移す”のよ」
—
須美が、
少し驚いたように目を見開いた。
—
「……引っ越し、ですか?」
—
「そう。
“通う”んじゃなくて、
ここに“暮らす”の。
それが、女将と番頭の覚悟ってものでしょ?」
—
紗英は、
ゆっくりとうなずいた。
—
「……はい。
水曜日に、ちゃんと荷物を持ってきます」
—
志乃は、
満足そうにうなずいた。
—
「それでいいわ。
この宿は、
もう“あなたたちの家”なんだから」
—
そして、
本当に最後の一言を残して、
志乃はバスに乗り込んだ。
—
“引っ越しなさい——
その言葉は、
ただの指示ではなかった。
それは、
この場所に根を張るための、
最初の一歩だった”
『山村の宿』VOL.9
— 今日だけ、ふたりきり —
—
荷物を運び終え、
帳場の整理もひと段落した午後。
—
須美は、
帳場の奥で書類をまとめていた紗英のもとへ、
そっと歩み寄った。
—
「紗英さん……」
—
「ん? どうしたの?」
—
須美は、
少しだけ間を置いて、
まっすぐに言った。
—
「今日だけ……
ふたりきりになりませんか?」
—
紗英は、
一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
—
けれど、
須美のまなざしが真剣なことに気づくと、
ふっと笑ってうなずいた。
—
「……わかりました。
“新しい女将”としてのご依頼、承ります」
—
須美も、
少し照れながら笑った。
—
「ありがとうございます。
“番頭”として、
今日はわがままを言わせてください」
—
紗英は立ち上がり、
帳場のベルを鳴らした。
—
その音に、
受付係の周防の人たちが集まってくる。
—
「みなさん、
今日の午後は、
受付も客室も、すべてお任せします。
私たちは、
少しだけ“ふたりきり”の時間をいただきます」
—
「了解しました!」
「おふたり、どうぞごゆっくり」
「お茶の用意、しておきますね」
—
スタッフたちは、
にこやかに頭を下げ、
それぞれの持ち場へと戻っていった。
—
—
旅館の中が、
ふたりのために静かになった。
—
須美と紗英は、
並んで廊下を歩きながら、
どこか照れくさそうに笑い合った。
—
“ふたりきりになる、ということは、
ただ人を遠ざけることじゃない。
ふたりの間に、
ちゃんと向き合う時間をつくること。
それを、
ふたりはもう知っていた”



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