元姑とレズビアンな嫁 VOL.1 @伊勢文香
夫・尚人は、妻・美咲と母・との関係がどこか親密すぎることに気づき始める。最初は「仲がいいのはありがたい」と思っていたが、ある日、ふたりだけで出かけた先の写真を偶然見つけてから、胸の奥に冷たいものが残るようになる。
ふたりの間に流れる視線、言葉の選び方、沈黙の質。尚人はそれを「愛」と呼んでいいのか分からず、雨の降る夜、ついに問いかける——。
美緒は、初めて尚人の家に招かれた日、彼の母・綾子に出会った。
その瞬間、胸の奥に灯ったのは、恋とも憧れともつかない、熱を帯びた感情だった。
綾子の声、所作、香り、そして時折見せる寂しげな微笑み。
美緒は決めた。「この人のそばにいたい」と。
そして尚人との交際を深め、結婚へと進んでいく——すべては、綾子の隣に座るために。
結婚式の写真を見返すたび、美緒は思う。
「この日、私は誰を見ていた?」
隣に立つ尚人の笑顔は、まるで背景の花と同じ。
彼の母・綾子が、遠くから見守っていたあの一瞬だけが、今も胸に焼きついている。夜、尚人が眠ったあと、そっと義母の部屋の前に立つ。
ノックはしない。ただ、扉の向こうにいる気配を感じるだけで、心が満たされていく。「尚人のことなんて、最初からこれっぽっちも好きじゃなかった」
その言葉を、鏡の中の自分にだけ、そっと告げる。
小学五年の夏。
プールの水面に差し込む光が、先生の腕に波紋を描いていた。
「水はね、嘘をつかないの」
そう言って笑った綾子先生の声が、今も耳に残っている。美緒はその日から、泳ぐたびに先生の背中を思い出すようになった。
それは憧れだったのか、恋だったのか、まだわからない。
でも、あの青い水の中でだけ、自分は先生に近づける気がした——。
「先生、覚えてますか? あのとき、私がプールで溺れかけたこと」綾子は少し笑って、頷いた。
「ええ。あなた、私の腕にしがみついて泣いてたわ」美緒はその言葉に、胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
あのときの温度が、今も肌に残っている気がした。「あのときから、ずっと先生が好きでした」
綾子は何も言わず、ただ静かに、美緒の手を握った。
婚姻届を出した日、尚人はまだ実感がなかった。
「…本当に、これでいいの?」美緒は笑って言った。
「いいの。だって、あなたのお母さんに会えるんでしょ?」その言葉に、尚人は少しだけ違和感を覚えた。
けれど、美緒の笑顔があまりにも自然で、何も言えなかった。その夜、美緒はひとりで綾子の旧姓を検索していた。
「先生、やっと、あなたの“家族”になれました」
美緒が台所に立つ姿を、綾子はふと見つめていた。
エプロンの結び目、濡れた髪、手の甲の小さな火傷。「先生、私、こうしてると幸せなんです」
美緒はそう言って、綾子の湯呑みにお茶を注いだ。
綾子は笑って受け取ったけれど、心の奥に小さなざわめきが残った。
この子は、私に何を見ているんだろう。
そして、自分はなぜ、その視線を拒めないのだろう。
美緒は知っていた。
綾子が夜、ひとりで過ごす時間の長さを。
誰にも見せない顔で、静かに自分を慰めることを。それは、誰かを求めているというよりも、
ただ、誰にも触れられないまま終わっていくことへの、
小さな抵抗のように思えた。「先生、私なら、ちゃんと見てますよ」
その言葉に、綾子は一瞬だけ、目を伏せた。
美緒は、カレンダーに赤い丸をつけながら、静かに息を吐いた。
「これでいい。これで、触れられずに済む」
尚人のことを嫌っているわけじゃない。
でも、彼に触れられるたび、心が遠のいていく気がした。それよりも、綾子の隣で過ごす朝のほうが、ずっと心が落ち着く。
“先生の家族”になるために、私はここにいる。
その信念だけが、彼女を支えていた。
美緒は、尚人のを握りながら、心の中で数を数えていた。
「あと何回、こうすればいい?」
唇を重ねるたび、指先が彼の肌をなぞるたび、
自分の中の“空洞”が広がっていくのを感じた。でも、綾子の家に通うたび、その空洞は満たされていく。
「新婚旅行でね」
そう言うたび、尚人はうなずいた。
彼が信じてくれることが、少しだけ申し訳なかった。でも、美緒は知っていた。
自分が本当に触れたいのは、尚人ではないということを。
綾子が洗濯物を干すたび、腕のたるみが揺れる。
美緒はその動きを、目で追ってしまう自分に気づいていた。「先生、昔より少しふっくらしましたね」
綾子は笑って、「年には勝てないわ」と答える。
でも美緒にとっては、それがたまらなく愛おしかった。
あの頃は遠くから見ているだけだった。
今は、同じ家にいて、同じ湯船に入ることだってできる。触れたい。
この人の、今の体に。
すべてを知って、すべてを受け入れたい。でもその手は、まだ伸ばせない。
触れてしまえば、すべてが壊れてしまう気がして。
綾子が髪を結い直すたび、横顔の輪郭がはっきりと浮かび上がる。
目元のしわも、頬のふくらみも、どこか優雅で、崩れていない。美緒は思う。
「先生は、太ったんじゃない。ただ、柔らかくなっただけ」その体に触れたい。
かつての憧れが、今は現実の温度を持って目の前にある。でも、綾子の顔があまりにも美しいからこそ、
自分の欲望が“汚れている”ように思えて、手が出せない。
海辺のリゾートホテル。
波の音が、窓の向こうで静かに繰り返している。尚人は、白いシャツのボタンを外しながら、少し照れたように笑った。
「…やっと、だね」美緒はその言葉に、笑顔でうなずいた。
けれど、心の奥では別のことを考えていた。“この部屋に、先生がいたら”
尚人が近づいてくる。
美緒はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。「ごめんね」
「え?」
「…やっぱり、今日は無理かも。体調が…」
尚人は一瞬、何かを飲み込むように黙った。
そして、優しく笑った。
「うん、わかった。無理しないで」美緒はその優しさに、少しだけ胸が痛んだ。
でも、尚人の手が離れていくと、ほっとしている自分がいた。ベッドに背を向けて横たわり、スマホを手に取る。
写真フォルダを開くと、そこには綾子と並んで写った一枚があった。
“先生、今どこにいますか。
私、ちゃんと家族になれましたよ”波の音が、また静かに部屋を満たしていく。
新婚旅行の夜、ホテルの部屋にて
カーテンの隙間から、月の光が床に落ちていた。
波の音が遠くで繰り返されている。尚人は、ベッドの端に腰を下ろしながら、美緒の方を見た。
「…緊張してる?」美緒は笑って首を振った。
「ううん。ただ、ちょっと疲れちゃった」「そっか。無理しなくていいよ」
その言葉に、美緒は少しだけ胸が痛んだ。
優しい人だと思う。
でも、その優しさが、どこか遠く感じる。尚人がそっと手を伸ばして、美緒の髪に触れた。
その瞬間、胸の奥に冷たい波が広がる。美緒はそっと手を添えて、その指を包み込むように握った。
「…ごめんね。今日は、眠ってもいい?」尚人は少し驚いたように瞬きをして、それからゆっくりとうなずいた。
「うん。大丈夫。ゆっくり休もう」美緒は背を向けて、ベッドに横たわった。
目を閉じると、思い浮かぶのは尚人ではなく、綾子の声だった。“水はね、嘘をつかないの”
小学生の頃、プールサイドで聞いたその言葉が、今も耳に残っている。
美緒はそっと、胸の前で手を組んだ。
“先生、私、ちゃんとここまで来ました。
でも、まだ触れられません。
あなたに、じゃなくて——
誰にも。”
婚約中、綾子との初対面(玄関先)
玄関の引き戸が開いた瞬間、懐かしい声がした。
「あら、久しぶりね。…同窓会以来かしら」
綾子は、変わらぬ美しい顔立ちで微笑んでいた。
体はふっくらとしていたけれど、目元の涼しさは昔のままだった。「うちの息子が、私の教え子を連れてくるなんて…何て偶然」
美緒は笑顔を崩さず、軽く頭を下げた。
けれど、心の中では静かに呟いていた。
「偶然じゃないわよ、お義母さん」
尚人の隣で、手をつなぐふりをしながら、
美緒は綾子の足元に視線を落とした。あの頃と同じ、落ち着いたベージュのスリッパ。
変わらない香り。“やっと、ここまで来たの。
あなたの家族になるために。”
午後の居間、ふたりきりの家の中
午後の光が障子越しにやわらかく差し込んでいた。
美緒は、わざと足音を立てずに廊下を歩いた。薄いレースの下着。
鏡の前で何度も確認した。
似合っているかどうかじゃない。
綾子が、どう反応するか——それだけだった。居間の戸を開けると、綾子は新聞を読んでいた。
一瞬、視線が止まり、空気がわずかに揺れた。「…どうしたの、そんな格好で」
綾子の声は落ち着いていた。
でも、その奥にある戸惑いを、美緒は見逃さなかった。「暑くて、つい」
「暑くても、家の中でそんな下着姿で歩き回るものじゃないわ」
綾子は新聞を畳み、ゆっくりと立ち上がった。
「服を着なさい。それと、その下着も普通のに着替えて。
そういうのは…誰かに見せるためのものでしょう」その言い方が、まるで授業中の注意のようで、美緒は思わず笑いそうになった。
“先生、やっぱり変わってない。
でも、私が誰に見せたいか、わかってるくせに”美緒はうなずいて、ゆっくりと部屋を出た。
背中に感じた綾子の視線が、ほんの少しだけ長くて、
それが答えのような気がした。
綾子の声は、いつものように落ち着いていた。
「服を着なさい。それと、その下着も普通のに着替えて」美緒はうなずいて、何も言わずに部屋を出た。
廊下を歩きながら、唇をかすかに噛む。
“あんたに見らーせるためなのに…”
そう思った瞬間、胸の奥がじんと痛んだ。
ただの下着じゃない。
色も、形も、レースの透け具合も、
綾子の目にどう映るかを考えて選んだ。それなのに、まるで“間違った生徒”みたいに注意されて。
“先生、私、まだ子どもに見える?
それとも…見ないふりをしてるだけ?”部屋に戻って、服を羽織る。
でも、心の中の熱だけは、どうしても消えなかった。
帰国後の夜、寝室にて
尚人は、ベッドの端に腰を下ろしながら、そっと美緒の肩に手を置いた。
「…最近、ずっと避けてるよね」
美緒は本を閉じて、ゆっくりと顔を上げた。
「なにが?」
「俺たち、夫婦なのに。
旅行中は“生理だから”って言ってたけど、
もう帰ってきて、何日も経ってる」美緒は少しだけ目を伏せた。
「…ごめん。なんか、気持ちが落ち着かなくて」
「俺、何かした?」
尚人の声には、怒りよりも不安がにじんでいた。
美緒は首を横に振った。
「違うの。ただ、まだ…そういう気持ちになれないだけ」「じゃあ、いつになったら“そういう気持ち”になるの?」
美緒は答えなかった。
代わりに、布団をかぶって背を向けた。
尚人はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「…俺たち、本当に夫婦なんだよね?」
その言葉に、美緒のまぶたがわずかに震えた。
でも、返事はしなかった。
夜の寝室、灯りは消えている
「…美緒」
尚人の声が、暗闇の中で響いた。
「本当のこと、話してくれよ」
美緒は布団の中で目を開けた。
天井の模様が、ぼんやりと浮かんで見える。「何が?」
「俺のこと、嫌いなの?」
少し間を置いて、美緒は首を横に振った。
「嫌いじゃないよ」「じゃあ、なんで…触れさせてくれないの?
俺たち、夫婦だよ。
旅行中も、帰ってきてからも、ずっと避けられてる」美緒は言葉を探した。
でも、どれも嘘になる気がして、口を閉ざした。「俺、何か間違ってた?
それとも、最初から…俺じゃなかったの?」その言葉に、美緒の喉がきゅっと締まった。
「…ごめん」
「ごめんじゃなくて、本当のことが知りたいんだよ」
尚人の声は、怒っているというより、
もうすぐ何かが壊れそうな音をしていた。美緒は、布団の中で拳を握った。
“言えるわけない。
あなたの母親に会いたくて、結婚したなんて”でも、言わなければ、尚人はずっと苦しむ。
それでも、美緒は黙っていた。
ただ、静かに背を向けたまま、
尚人の問いかけが、夜の中に溶けていくのを聞いていた。
夜、ふたりの寝室。会話の続き
尚人は、しばらく黙っていた。
けれど、沈黙に耐えきれなくなったように、ぽつりとつぶやいた。「…言いたくなかったんだけどさ」
美緒は、背を向けたまま動かない。
「おまえ…レズなんじゃないのか」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
美緒はゆっくりと振り返った。
表情は、怒ってもいなければ、驚いてもいなかった。ただ、静かに尚人を見つめていた。
「…それが、答えになると思う?」
尚人は目をそらした。
「わからない。
でも、俺のこと、ずっと避けてるし…
母さんといるときのほうが、楽しそうに見えるから」美緒は何も言わなかった。
ただ、尚人の言葉の中に“母さん”という響きが出たことに、
心の奥がざわついた。“気づき始めてる。
でも、まだ核心には届いていない”「…私が誰を好きかなんて、どうでもいいでしょ」
「どうでもよくないよ。
俺は、あんたの夫なんだぞ」美緒はふっと笑った。
「そうね。あなたは、私の“夫”だものね」その言い方に、尚人は言葉を失った。
まるで、夫という肩書きだけがそこにあって、
中身は空っぽだと告げられたようだった。
ある晩の食卓、静かな会話
食後の食器を片づけながら、美緒はふと口を開いた。
「…ねえ、もし、あなたが風俗に行くなら、
小遣いの範囲で済ませてね」尚人は手を止めた。
「…は?」「そういうの、責めるつもりはないの。
でも、相手に気持ちを移すのはやめて。
トラブルになるのは、避けたいから」尚人はしばらく黙っていた。
「…それ、本気で言ってるの?」
美緒はうなずいた。
「うん。あなたがそういうことでストレスを溜めるのも、
私のせいにされるのも、正直しんどいから」「じゃあ、俺たちって何なんだよ」
美緒は食器を拭きながら、静かに言った。
「家族。
それ以上でも、それ以下でもない」尚人は、笑うことも怒ることもできなかった。
ただ、目の前の妻が、どこか遠くにいるように感じた。
※美緒は、自分のことを「恋はできるけれど、異性愛的な性行為には強い抵抗がある」と感じていた。
それは、誰かを拒絶しているわけではなく、
ただ、自分の身体と心が自然にそう反応してしまうというだけのことだった。
彼女はまだ、自分の在り方に名前をつけてはいなかったけれど、
もし言葉にするなら「ホモロマンティック・デミセクシュアル※」という表現が近いのかもしれない。
※同性に恋愛感情を抱き、深い信頼関係が築かれた相手にのみ性的な親密さを感じるセクシュアリティ。
夜、洗面所の前での会話
尚人が歯を磨いていると、美緒が後ろから声をかけた。
「ねえ、ひとつだけ、お願いがあるの」
尚人は鏡越しに彼女を見た。
「なに?」「あなたがオナニーしてても、私は責めない。
動画を見てても、何も言わない。約束する」尚人は一瞬、言葉を失った。
「…それ、どういう意味?」
美緒は淡々と続けた。
「ただ、見えないところでしてね。
私の前では、絶対にしないで。
それだけ守ってくれたら、私は何も言わないから」尚人は、歯ブラシをゆっくりと洗いながら、
その言葉の意味を噛みしめていた。「…俺のこと、ほんとにどうでもいいんだな」
美緒は首を横に振った。
「違う。
どうでもいいなら、ルールなんて作らない」「じゃあ、なんでそんなに冷たいんだよ」
美緒は答えなかった。
ただ、洗面所の明かりが、ふたりの間の距離を
くっきりと照らしていた。
尚人との夜の会話、静かな対峙
「…なあ、美緒」
尚人は、ソファの端に座ったまま、低い声で言った。
「おまえ、本当は…女の人が好きなんじゃないのか」美緒は、カップに残った紅茶を見つめたまま、答えなかった。
「違うなら、違うって言ってくれよ」
少しの沈黙のあと、美緒はゆっくりと口を開いた。
「…好きって、どういう意味?」
「え?」
「恋愛? 性的なこと? それとも、ただの憧れ?
ねえ、どこからが“好き”なの?」尚人は言葉に詰まった。
美緒は続けた。
「私は、綾子さんのことが好き。
でも、それが“レズ”って言葉で片づけられるなら、
たぶん、私は違う」「じゃあ、俺のことは?」
美緒は、初めて尚人の目を見た。
「あなたは、私の“夫”よ」
その言い方に、尚人は何も言えなくなった。
それは、肯定でも否定でもなかった。
ただ、静かに線を引くような言葉だった。
3か月後、ふたりの静かな話し合い
尚人は、久しぶりに真っ直ぐ美緒を見ていた。
「…本当に、それでいいのか?」
美緒はうなずいた。
「ええ。
この家の名前を継ぎたいなら、協力する。
でも、SEXで妊娠するのは…無理」「じゃあ、どうやって?」
「方法はいろいろある。
医学的な手段もあるし、第三者の協力も」尚人は目を伏せた。
「…そこまでして、俺たちって夫婦でいる意味あるのかな」美緒は静かに答えた。
「“夫婦”って、何を指すの?
愛? 身体? それとも、制度?」尚人は答えられなかった。
美緒は続けた。
「私は、あなたの母親を尊敬してる。
この家の空気も、歴史も、嫌いじゃない。
だから、壊したくないの」「でも、俺は…」
「あなたは、あなたの幸せを探していいのよ。
私は、私の役割を果たすだけ」尚人はその言葉に、何かを諦めるように目を閉じた。
そして、ふたりの間にあった“夫婦”という言葉は、
その夜、静かにかたちを変えた。
ある土曜の朝、車の中
病院の駐車場に車を停めたあと、美緒は助手席で静かに言った。
「今日、付き合ってくれてありがとう」
尚人はうなずいた。
「…検査?」「ううん。
あなたの精子が必要なの。
採取してもらうために、今日、お願いしたいの」尚人は、シートベルトを外す手を止めた。
「…それって、俺が“出す”ってこと?」
美緒はまっすぐ彼を見た。
「そう。
でも、私とはしない。
病院の個室で、あなたひとりで」尚人は目を伏せた。
「…なんか、すごく虚しいな」
「そうかもしれない。
でも、あなたの遺伝子を残したいって気持ちは、
私なりの誠意なの」尚人は深く息を吐いた。
「…わかった。やるよ。
でも、これで本当に“家族”になれるのか、わからない」美緒は微笑んだ。
「“家族”って、形から始まることもあると思う」その言葉に、尚人は何も返さなかった。
ただ、病院の建物を見つめながら、
自分が今から何をしようとしているのかを、
静かに飲み込もうとしていた。
病院の駐車場、沈黙のあと
尚人はしばらく黙っていた。
美緒の言葉は、まるで事務的な依頼のように聞こえた。
でも、その裏にある“感情の不在”が、
彼の胸をじわじわと締めつけていた。「…ごめん。
ちょっと、考えさせてくれ」美緒は驚いたように彼を見たが、すぐに表情を戻した。
「わかった。無理にとは言わない」
尚人は車のドアを開けた。
「少し、一人になりたい」
美緒はうなずいた。
「気をつけて」それだけだった。
尚人は車を降り、病院の前を通り過ぎて、
そのまま歩き出した。背中に、美緒の視線は感じなかった。
ただ、春の風が吹いていた。
“俺は、何のために夫になったんだろう”
その問いが、尚人の足元に重くのしかかっていた。
LINEのやりとりから、ホテルの部屋へ
美緒(LINE):
「お義母さん、ちょっと街に出てきてほしいの」綾子:
「わかったわ。どこに行けばいいの?」美緒:
「〇〇観光ホテルのロビーに来て。部屋、取ってあるから」数分後——
綾子:
「今、向かってるわ」***
ホテルの部屋。
カーテン越しに、午後の光がやわらかく差し込んでいる。
美緒は、ベッドの端に座って、手のひらをぎゅっと握っていた。ノックの音。
「…美緒?」
ドアを開けると、綾子が立っていた。
ベージュのコートに、落ち着いた色のスカーフ。
いつものように整った姿。「どうしたの? こんなところに呼び出して」
美緒は、少しだけ笑った。
「お義母さんと、ちゃんと話がしたくて」綾子は一瞬、目を細めた。
「ここで?」
「うん。家じゃ、言えないことだから」
綾子はゆっくりと部屋に入った。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
そして、ふたりの間に、
長い沈黙が落ちた。
平日の昼、観光ホテルの一室にて
ドアが閉まると、外の世界の音がすっと消えた。
綾子は、部屋の中を一度見渡してから、
静かにソファに腰を下ろした。「尚人は、会社?」
美緒はうなずいた。
「ええ。今日は出社日だから」綾子は頷きながら、少しだけ表情を曇らせた。
「それで…話って?」
美緒は、窓の外を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「お義母さん、覚えてる?
私が小学生のとき、プールの授業で、
ひとりだけ泳げなくて泣いてたときのこと」綾子は少し驚いたように目を見開いた。
「…覚えてるわ。あなた、すごく悔しそうだった」「あのとき、私にタオルをかけてくれたの、
先生じゃなくて、“誰か”としてだった気がするの」綾子は何も言わなかった。
美緒は、ゆっくりと綾子の方を向いた。
「あのときから、ずっと…
私の中で、お義母さんは“先生”じゃなくなったの」綾子の指先が、膝の上でわずかに震えた。
「それを言うために、ここに呼んだの?」
美緒はうなずいた。
「ううん。
それを“隠し続けるのが、もう限界”だったから」部屋の中に、時計の針の音だけが響いていた。
綾子は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、何も言わずに、美緒の手にそっと触れた。
ホテルの部屋、沈黙のあと
美緒は、綾子の手に触れられたまま、そっと目を伏せた。
「…お義母さんだって、まんざらでもなかったでしょ」
綾子の指が、わずかに動いた。
「私の身体、昔から発達してた。
水泳の指導って言いながら、
触れ方が、どこか優しすぎた」綾子は何も言わなかった。
「私、気づいてたの。
でも、嫌じゃなかった。
それどころか、あの時間が、
私の中でずっと残ってた」美緒は、綾子の目を見つめた。
「だから、今ここにいるの。
あのときの続きを、
ちゃんと確かめたくて」綾子は、ゆっくりと手を引いた。
そして、静かに立ち上がり、
窓の外に目を向けた。「…あなたは、私の教え子だったのよ」
「今は、あなたの“息子の妻”よ」
綾子は、背を向けたまま、
何かを飲み込むように、
小さくうなずいた。
※美緒は、自分が女性に恋をする人間——つまりレズビアン(同性愛者)であることを、
思春期のころからうすうす感じていた。
異性との関係にときめきを感じたことはなく、
むしろ同性の年上の女性に惹かれることが多かった。
綾子に出会ったとき、それは確信に変わった。
※一方で綾子は、自分の性的指向について明確な言葉を持っていなかった。
結婚し、子どもを産み、育て、母として、教師として生きてきた30年。
その中で「自分が誰に惹かれるのか」を深く考える余地はなかったのかもしれない。
彼女のように、自分の性的指向がはっきりしない、または限定されない人は、
LGBTQ+の中では「クィア(Queer)」や「パンセクシュアル(Pansexual)」、
あるいは「アセクシュアル・スペクトラム」に含まれることもある。
ただし、綾子自身がそのどれかを名乗っているわけではない。
彼女にとって大切なのは、“誰を好きになるか”ではなく、“誰と向き合いたいか”だった。
観光ホテルの一室、午後の光の中で
綾子は窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。
美緒は、立ち上がって、ゆっくりと背中に近づいた。
「…お義母さん」
綾子の肩が、わずかに揺れた。
「私、あなたのことが好きです」
その言葉は、思っていたよりも小さな声だった。
でも、部屋の中にはっきりと響いた。綾子は振り返らなかった。
美緒は、そっと腕を伸ばして、
綾子の背中に触れた。「ずっと言えなかった。
でも、もう黙っていられないの」綾子はゆっくりと振り向いた。
その目には、驚きでも拒絶でもなく、
ただ、深い戸惑いが浮かんでいた。美緒は、その目を見つめながら、
震える声で言った。「お願い…わたしを、拒まないで」
そして、そっと綾子の肩に額を預けた。
綾子は何も言わず、
ただその重みを受け止めていた。
ホテルの一室、午後の光が少し傾き始めたころ
美緒は、綾子の肩に額を預けたまま、
小さな声でつぶやいた。「…お義母さん、私のこと、嫌いですか?」
綾子は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
その問いは、あまりにも真っ直ぐで、
あまりにも脆くて、
触れたら壊れてしまいそうだった。「どうして、そんなこと聞くの?」
美緒は顔を上げた。
「だって、何も言ってくれないから。
私が“好き”って言っても、
何も返してくれないから」綾子は、美緒の目を見つめた。
「嫌いじゃないわ。
でも…好きとも、簡単には言えないの」美緒の目が、わずかに揺れた。
綾子は続けた。
「あなたは、私の息子の妻。
そして、私の教え子だった。
その境界を越えるには、
私にはまだ…時間が必要なの」美緒は、ゆっくりとうなずいた。
「…待ちます。
でも、もう嘘はつきたくない」綾子は、そっと美緒の手を握った。
その手は、少しだけ震えていた。
ホテルの部屋、夕暮れの光が差し込む中
美緒は、綾子の手をそっと離した。
そして、少しだけ微笑んで言った。
「…もう、帰ってください」
綾子は驚いたように目を見開いた。
「え?」
「わたし、この部屋で泊まっていきます。
今日は、ひとりでいたいんです」綾子は何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
美緒は、窓の外を見ながら続けた。
「お義母さんと話せてよかった。
気持ちを伝えられて、少しだけ楽になりました」「美緒…」
「でも、今はまだ、
この気持ちをどうすればいいのか、わからないんです」綾子はゆっくりと立ち上がった。
「わかったわ。
何かあったら、いつでも連絡して」美緒はうなずいた。
綾子がドアを開け、振り返る。
「…気をつけてね」
「はい。お義母さんも」
ドアが閉まる音がして、
部屋に静寂が戻った。美緒はベッドに腰を下ろし、
静かに目を閉じた。“好きって、言えてよかった。
でも、これからどうすればいいんだろう”その問いが、夜の帳とともに、
ゆっくりと胸の奥に沈んでいった。
夜、帰宅した尚人と綾子の会話
靴を脱ぎながら、尚人はふと尋ねた。
「あれ? 美緒は?」
綾子はキッチンで湯を沸かしながら、
少しだけ間を置いて答えた。「…ひとりになりたいんだって。
隣町のホテルにいるらしいわ」尚人は動きを止めた。
「ホテル? なんでまた…」
「ちょっと疲れてるみたい。
いろいろ考えたいって」尚人はソファに腰を下ろし、
スマホを手に取ったが、すぐには何も打たなかった。「…俺、何かしたかな」
綾子は湯気の立つポットを見つめながら、
静かに言った。「美緒さん、あなたのこと嫌いじゃないと思うわ。
でも、今は自分の気持ちと向き合いたいのかもしれない」尚人は、スマホの画面を見つめたまま、
小さくつぶやいた。「俺の知らないところで、
何かが変わってる気がするんだよな…」綾子は何も答えなかった。
ただ、その背中に、
ほんの少しだけ緊張が走っていた。
尚人のスマホに届いたLINEメッセージ
美緒
「尚人さんへ
他の女性と結婚しなおしてください。
わたし、あなたと離婚します。
どうしても、子供を作ってあげられなくてごめんなさい。
離婚届は、郵送します。」
尚人は、スマホを持つ手が震えるのを感じた。
画面の文字は、あまりにも整っていて、
まるで事務連絡のようだった。でも、その整いすぎた言葉の裏に、
どれだけの涙と葛藤があったのか、
想像するだけで胸が締めつけられた。「…なんで、こんな形で」
声に出しても、誰も答えてくれない。
尚人は、ただ画面を見つめながら、
その言葉の重さを、
ひとりで受け止めるしかなかった。
尚人のスマホに届いた、もう一通のLINE
美緒
「私の荷物は、私の実家に送ってください。
お金は、あなたの口座に入れておきます。
これで、すべて終わりにします。」
尚人は、スマホを握りしめたまま、
しばらく動けなかった。「終わり…か」
その言葉が、部屋の中にぽつんと落ちた。
テレビの音も、時計の針の音も、
すべてが遠くに感じられた。彼女の荷物がなくなった部屋を想像する。
空っぽのクローゼット。
使われなくなったマグカップ。そして、もう戻らない背中。
尚人は、ようやく立ち上がり、
静かに寝室のドアを開けた。そこには、まだ美緒の香りが、
かすかに残っていた。
荷造りを終えた夜、尚人の独白
ダンボールのふたを閉じる直前、
尚人はふと、手にしていた下着のセットを見つめた。柔らかいベージュのレース。
美緒がよく着ていたもの。そのとき、手が止まった。
「…これは、入れなくていいか」
誰に言うでもなく、そうつぶやいて、
そっと引き出しに戻した。ふたを閉じ、ガムテープを貼る音が、
やけに大きく響いた。それは、まるで“もう戻らない”という印のようだった。
でも、引き出しの中に残されたその1セットだけが、
尚人の中にある言葉にできない感情を、
そっと物語っていた。
引っ越し当日の午後、美緒の独白
新しいアパートの鍵を開けると、
まだ何もない部屋に、午後の光が差し込んでいた。ダンボールがいくつか積まれている。
けれど、生活の匂いはまだどこにもない。美緒は、窓を開けて外を見た。
少し先に、かつて住んでいた家の屋根が見える。
そして、そのもっと向こうに、
綾子の家がある方向を、
自然と目で追っていた。「…遠すぎず、近すぎず」
そうつぶやいて、カーテンを閉めた。
“もう、あの人の家に行く理由はない。
でも、風の向きで、あの人の庭の匂いが届くかもしれない”そんなことを思いながら、
美緒は静かに荷解きを始めた。
ある平日の朝、美緒のアパートにて
カーテンの隙間から、朝の光が差し込む。
美緒は、スマホのカレンダーを確認しながら、
小さくつぶやいた。「今日は水曜…尚人さんは、午前中は在宅勤務の日」
彼が買い物に出る時間、通勤ルート、
週末に立ち寄るスーパーの時間帯まで——
美緒の頭の中には、自然とその“地図”ができあがっていた。そして、そのすべてを避けるように、
自分の行動を組み立てていく。「偶然なんて、起きないように」
そう言いながら、
美緒はマスクをつけ、帽子を深くかぶった。すれ違わないように。
見つからないように。それが、彼への最後の礼儀だと信じていた。
でも、心のどこかで——
“見つかってしまったらどうしよう”という
微かなざわめきが、
まだ完全には消えていなかった。
イオンの食品売り場、午後の静かな時間帯
美緒は、冷蔵コーナーで豆腐を手に取っていた。
そのとき、背後から聞き慣れた声がした。
「あら、お久しぶりです、先生」
振り返ると、そこに綾子がいた。
ベージュのコートに、落ち着いた色のマフラー。
相変わらず、隙のない佇まい。美緒は、ほんの一瞬だけ息を止めた。
でも、すぐに微笑んで言った。
「…こんにちは。お元気そうで」
綾子は、カゴの中の野菜を見せながら、
「今日は煮物でも作ろうかと思って」と笑った。その笑顔は、どこかぎこちなくて、
でも、懐かしかった。美緒は、豆腐をカゴに入れながら、
小さくつぶやいた。「先生に会うの、久しぶりですね。
でも、なんだか…全然時間が経ってないみたい」綾子は、少しだけ目を伏せて言った。
「私も、そう思ってたのよ。
でも、あなたはもう“先生の生徒”じゃないのよね」美緒は、何も言わずにうなずいた。
ふたりの間に、
冷蔵ケースの冷気とは別の、
ひんやりとした空気が流れていた。
イオンの駐車場、夕暮れの光の中で
買い物袋を手に、ふたりは並んで歩いていた。
夕日が低くなり、影が長く伸びている。
美緒は、ふと立ち止まった。
綾子も足を止め、振り返る。
「どうしたの?」
美緒は、少しだけうつむいてから、
まっすぐ綾子を見つめた。「先生、じゃないですね。
もう私は、尚人さんの妻じゃない。
だから…“お義母さん”でもない」綾子の表情が、わずかに揺れた。
「私は、ただの“美緒”です。
そして、あなたは“綾子さん”」風が吹き、綾子のマフラーがふわりと揺れた。
「あのとき、ホテルで言ったこと——
あれは、気まぐれじゃありません。ずっと、ずっと考えてました。
だから、もう一度だけ…
綾子さんの“答え”を聞かせてください」綾子は、何も言わずに美緒を見つめた。
その目には、驚きも戸惑いもなく、
ただ、深く静かな光が宿っていた。「…場所を変えましょうか」
その一言に、美緒は小さくうなずいた。
ふたりは、夕暮れの街を歩き出した。
もう、“家族”ではない。
でも、何かが始まる予感だけが、
静かにふたりの間に流れていた。
ホテルのラウンジ、夜の静けさの中で
窓の外には、街の灯りがにじんでいた。
テーブルの上には、冷めかけた紅茶。
美緒は、カップを両手で包みながら、
ぽつりとつぶやいた。「…あの人、元気ですか?」
綾子は、少しだけ間を置いて答えた。
「ええ。静かに暮らしてるみたい」
美緒はうなずいた。
「本当に、ごめんなさい」
綾子は、カップを置いた。
「何に対して?」
美緒は、目を伏せたまま言った。
「私…綾子さんに近づきたくて、
そのために、尚人さんに近づいたんです」綾子のまなざしが、わずかに揺れた。
「もちろん、あの人を嫌いだったわけじゃない。
でも、最初から…
私の目は、あなたを追ってた」美緒は、ようやく綾子の目を見た。
「ずっと、言えなかった。
言ったら、全部壊れる気がして」綾子は、深く息を吸い込んだ。
そして、静かに言った。
「…壊れたのは、あなたのせいじゃないわ」
美緒の目に、涙がにじんだ。
それは、赦しではなかった。
でも、拒絶でもなかった。
ホテルのラウンジ、夜が深まり始めたころ
窓の外には、街の灯りが滲んでいた。
美緒は、紅茶のカップを両手で包みながら、
しばらく黙っていた。綾子は、何も言わずにその沈黙を待っていた。
やがて、美緒がぽつりと口を開いた。
「…誰にも言ったことないんです」
綾子が、そっと視線を向ける。
「私、これまでずっと…
誰にも触れられたことがありません」綾子の目が、わずかに揺れた。
「尚人さんとも、そういう関係にはなれなかった。
たぶん、心のどこかで、
自分を誰かに“あげる”ことができなかったんです」美緒は、綾子の目をまっすぐに見つめた。
「でも、綾子さんには…
ずっと、心も身体も、
正直でいたいと思ってました」「それは、今でも変わりません」
綾子は、言葉を失ったまま、
ただその想いの重さを受け止めていた。美緒の声は震えていなかった。
それが、どれほどの時間をかけて
自分の中で育てられてきた気持ちなのか——
綾子には、痛いほど伝わっていた。
ありがとう。
この場面は、美緒と綾子の関係が決定的に動く瞬間だね。
綾子の問いには、母としての痛みと疑いがにじんでいて、
美緒の答えには、誠実さと覚悟、そして愛の告白が込められている。
ここでは、ふたりの間にあった長い沈黙と、
それを超えてようやく交わされる本音と本音の対話を、
静かに、でも確かに描いてみるね。
ホテルのラウンジ、夜の終わりが近づくころ
綾子は、カップを置いて、
少しだけ視線を落とした。「…うちの息子、少し知的に弱いところがあるの、
あなたも知ってるでしょう」美緒は、まっすぐに綾子を見つめた。
「それも、離婚の原因なの?」
一瞬、空気が止まった。
美緒は、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、違います」
「尚人さんは、優しい人です。
私のことを大切にしてくれました。
嫌いじゃない。
むしろ、感謝しています」綾子の目が、わずかに潤んだ。
美緒は、言葉を選びながら続けた。
「でも…どうしても、
私は先生のことが好きなんです」「ずっと、ずっと、
あなたの背中を追いかけてきました」「愛しています」
「私と、付き合ってください」
綾子は、何も言わずに美緒を見つめていた。
その目には、驚きも、拒絶もなかった。
ただ、長い時間をかけてようやく届いた想いを、
ひとつひとつ、心の中で受け止めているようだった。そして、静かに、
ほんの少しだけ、うなずいた。
ホテルのラウンジ、夜の静寂の中で
綾子が、ほんの少しだけうなずいた瞬間、
美緒の目が大きく見開かれた。「え…いいんですか?」
声が震えていた。
綾子は、微笑んでうなずいた。
「そんなに驚かないで。
私も、ずっと考えてたのよ」美緒は、両手で口元を覆った。
そして、涙がこぼれるのもかまわず、
小さな声で言った。「うれしいです…
本当に、うれしいです…」綾子は、そっと手を伸ばして、
美緒の手に触れた。「ありがとう、せんせい…」
その言葉は、もう“生徒”のものではなかった。
それは、ひとりの女性が、
もうひとりの女性に向けて贈った、
心からの愛の言葉だった。
ラウンジを出たあと、別れ際の歩道にて
街灯の下、ふたりは並んで歩いていた。
美緒は、ふと立ち止まり、
少し照れたように言った。「あの…先生の家から、2ブロック先のアパートに住んでます」
綾子は、少し驚いたように目を見開いた。
「そうだったの?」
「はい。…ずっと前から、そこに」
美緒は、視線を落としながら続けた。
「今度、よかったら来てください。
昼間なら、静かですし…」綾子は、微笑んだ。
「お招き、ありがとう」
美緒は、ほっとしたように笑った。
「お茶くらいしか出せませんけど…
お待ちしています、先生」綾子は、その“先生”という呼び方に、
どこか懐かしさとくすぐったさを感じながら、
小さくうなずいた。「じゃあ、近いうちに」
ふたりの影が、街灯の下で重なっていた。
ソープランド【胡蝶蘭】
「いらっしゃい」
ドアを開けた由衣は、
いつもの制服ではなく、
淡いグレーのワンピースに身を包んでいた。髪はゆるくまとめられ、
ほのかに香るシャンプーの匂いが、
尚人の緊張をやわらげた。室内は、間接照明のやわらかな光に包まれていた。
赤いラグが敷かれたリビングには、
低めのテーブルと、
小さな花瓶に挿された白い百合。「狭いけど、どうぞ」
由衣は、スリッパを差し出しながら微笑んだ。
尚人は、玄関で一瞬立ち止まり、
その空気を吸い込んだ。※それは、ソープランドの煌びやかな個室とは違う、
生活の匂いがする空間だった。けれど、どこかで見たような、
懐かしい温もりがあった。それは、かつて美緒と暮らした家の、
静かな夜の空気に、少し似ていた。
午後の静かな時間
「ねえ、由衣さんって、こういうとき…
女の人って、どう思ってるんだろう」尚人は、ベッドの端に座りながら、
ふとそんなことを口にした。由衣は、髪をまとめながら振り返る。
「どういう“こういうとき”?」
「いや…たとえばさ、
奥さんが急に“家族でいい”って言い出したら、
それって、もう男として見てないってことだよね?」由衣は、少しだけ考えてから、
静かに答えた。「うーん…たぶん、そうかもね。
でも、それって“嫌い”とは違うと思うよ」「違うの?」
「うん。
たとえばさ、私たちって、
仕事で“身体”を使ってるけど、
心までは渡してないでしょ?逆に、心だけを誰かに向けるってこともある。
女って、そういうふうに分けて考えること、できるんだよ」尚人は、黙って天井を見上げた。
「…あの人、誰か好きな人がいたのかな」
由衣は、そっと尚人の肩に手を置いた。
「それ、聞いてどうするの?」
「わからない。ただ…知りたいだけ」
※尚人は、風俗という“感情の絡まない場所”に、
安心を求めていた。
でも、由衣という女性の静かな観察眼と、
仕事としての距離感が、
逆に彼の心の奥を引き出していった。彼は気づかぬうちに、
元妻のことを、
そして“自分が何を失ったのか”を、
少しずつ語り始めていた。
午後の静かな時間
シャワーを終えた尚人がベッドに戻ると、
由衣はすでにシーツの上で、
髪をまとめながら彼を見上げていた。「ねえ」
彼女は、少しだけ声を落として言った。
「いまは、わたしに集中して」
尚人は、バスタオルを腰に巻いたまま立ち止まる。
「あなたのここ——」
由衣は、尚人の胸にそっと手を置いた。「元気になって。
わたしを喜ばせて」その言葉に、尚人は一瞬だけ戸惑ったような顔をしたが、
すぐに小さく笑ってうなずいた。「…わかった」
彼は、ベッドに腰を下ろし、
由衣の目を見つめながら、
ゆっくりと手を伸ばした。※尚人にとって、由衣との時間は、
単なる“発散”ではなかった。彼女の言葉や仕草のひとつひとつが、
自分の中に残る“誰かへの未練”や“男としての自信の揺らぎ”を、
少しずつほぐしていくようだった。由衣もまた、彼の不器用な優しさに気づいていた。
「奥さんのこと、まだ好きなんでしょ」
そう言ったとき、尚人は何も言わなかった。
でも、彼の手の温度が、
その答えを語っていた。
行為のあと、静かな時間
カーテンの隙間から、午後の光が差し込んでいた。
尚人はベッドに仰向けになり、天井を見つめていた。
由衣は、彼の隣でタバコに火をつける。
「ねえ」
「ん?」
「元奥さんって、どんな人だったの?」
尚人は、少しだけ眉をひそめた。
「なんでそんなこと聞くの」
「気になるから。
あなた、たまに名前出すじゃん。
それに…」由衣は、煙を吐きながら続けた。
「行為のあと、いつも少しだけ、
遠くを見る顔するんだよね」尚人は、苦笑した。
「観察力あるな」
「仕事だからね」
少し沈黙があって、尚人が口を開いた。
「…静かな人だったよ。
感情をあまり表に出さない。
でも、芯が強くて、
俺が何か言う前に、だいたい察してた」「へえ。そういう人、疲れない?」
「うん、疲れた。
でも、安心もしてた。
家に帰ると、空気が落ち着いてたから」由衣は、ベッドの上で体を横にして、尚人の顔を見つめた。
「じゃあ、なんで別れたの?」
尚人は、少しだけ目を閉じた。
「たぶん…俺が、彼女の“想定外”だったんだと思う。
彼女は、俺に“家族”を求めてた。
でも、俺は…“女”として見てほしかった」「ああ」
由衣は、静かにうなずいた。
「そういうの、よくあるよ。
女のほうが、もう“役割”でしか見てないってやつ」「でも、俺は…
たぶん、まだ彼女のこと、嫌いじゃない」「うん、知ってる」
由衣は、タバコを灰皿に押しつけた。
「でもさ、あんたが今ここにいるってことは、
その人の隣には、もう戻れないってことでもあるんだよ」尚人は、何も言えなかった。
ただ、由衣の言葉が、
自分の中の“未練”に、
そっと蓋をするように響いた。
5回目の夜、ホテルの一室。営業終了間際
時計の針が、深夜1時を回ったころ。
由衣は、ベッドの端に腰を下ろしながら、
静かに言った。「尚人さん、今日…あなたで最後なの」
尚人は、少し驚いたように顔を上げた。
「え、そうなの?」
「うん。お店、もう営業終わり。
わたしも、これで上がり」彼女は、制服のボタンを留めながら、
ふと視線を落とした。「ねえ…このあと、ちょっとだけ会えない?」
尚人は目を見開いた。
「会うって…どこで?」
「駅前のマクドナルド。
あそこ、24時間やってるでしょ。
10分だけでいいから。
わたし、絶対行くから」尚人は、しばらく黙っていたが、
やがて小さくうなずいた。「…わかった。待ってる」
※“営業終了”という言葉の裏に、
由衣はもうひとつの意味を込めていた。それは、“お客さんとしての関係はここで終わり”という区切り。
そして、これから会うのは、
制服を脱いだ“由衣”として。それが何を意味するのか、
彼女自身もまだ答えを持っていなかった。でも、尚人の目を見て、
「この人なら、少しだけ話してもいい」と思えた。それだけは、確かだった。
行為の最中。由衣の内面描写
尚人の手は、どこかぎこちなく、
でも丁寧だった。触れるたびに、まるで「これでいいのか」と
自分に問いかけているような動き。由衣は、その不器用さに、
ふと胸が熱くなるのを感じた。※顔でも、体型でもない。
彼の言葉の端々ににじむ、
元奥さんへの思いやり。「嫌いじゃない」
「家族としては大事だった」
「でも、女として見てほしかった」そんな言葉を、
彼は照れもせず、
ただまっすぐに口にしていた。それが、由衣には誠実さに思えた。
「この人、誰かをちゃんと大事にしてきたんだ」
そう思った瞬間、
由衣の中で何かが変わった。これはもう“仕事”じゃない。
「この人のそばにいてあげたい」
その気持ちが、
行為の終わり際、
思わずこぼれた言葉になった。「尚人さん、今日…あなたで最後なの。
お店、もう営業終わり。
このあと、駅前のマクドナルドで待ってて。
絶対、行くから」尚人は驚いたように見つめていたけれど、
由衣はその視線をまっすぐ受け止めた。※それは、由衣にとっても“はじめて”のことだった。
仕事のあとに、誰かに会いたいと思ったのは、
この5年間で初めてだった。
行為に入る直前の静かな時間
尚人は、ベッドの脇に置かれた小さなポーチから、
コンドームを取り出した。それは、これまでの4回と同じ、
いつもの流れだった。でも、その手を止めたのは、
由衣の声だった。「…今夜は、いいわ」
尚人は、驚いたように彼女を見た。
「え?」
由衣は、シーツの上で体を起こし、
彼の手からそっとパッケージを取り上げた。「お店には、内緒だよ」
その声は、冗談めいていたけれど、
目は真剣だった。尚人は、しばらく黙って彼女を見つめていたが、
やがて、ゆっくりとうなずいた。「…わかった」
※それは、由衣にとって一線を越える選択だった。
5年間、どんなに優しい客にも、
決して許さなかったこと。でも、尚人の不器用な手つきと、
ふとした瞬間に見せる寂しげな目が、
彼女の中の“仕事”を、
少しずつ溶かしていった。「この人なら、大丈夫」
そう思えたのは、
彼が“誠実さ”を手放さずに、
ここにいるからだった。
深夜のマクドナルド、駅前の窓際席
プラスチックのカップに残った氷が、
カランと音を立てた。由衣と尚人は、向かい合って座っていた。
ふたりとも、制服でもスーツでもない。
ただの“由衣”と“尚人”として、
コカ・コーラを飲みながら、
ぽつぽつと話していた。「…なんか、変な感じだね」
由衣が笑った。
「うん。
でも、こういうの、悪くない」尚人も、少し照れたように笑い返した。
店内に流れる音楽が、
夜の静けさをやさしく包んでいた。やがて、由衣がカップを置いて、
ふと口を開いた。「ねえ、尚人さん」
「ん?」
「今夜…わたしのマンション、泊まっていって」
尚人は一瞬、言葉を失った。
「…いいのかい? そんなことして」
由衣は、まっすぐに彼を見つめた。
「うん。
尚人さんなら、
わたしの家、教えてもいいって思ったの」その言葉には、
これまでの5回の夜と、
今この時間があったからこその、
静かな信頼が込められていた。尚人は、少しだけ息を吐いて、
うなずいた。「…わかった。ついていくよ」
※その夜、ふたりは“客と嬢”ではなく、
“名前を知るふたり”として、
同じ夜道を歩き始めた。
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