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『白衣の内側、春の手前』

― 書き出し ―

「れず関係は すべてをさらけ出している 裸の付き合い敷いてる 深い関係 だが 45才男性医者とは 下着の上からのふれあいマテでとまっている あーー 今後どうしょう わたしには年下の彼女がいるのに・・・」

澪は、ロッカールームのベンチに腰を下ろし、白衣のボタンを外しながら、心の中で何度もその言葉を繰り返していた。
夜勤明けの病棟は、まだ薄暗く、窓の外には朝の光がぼんやりと滲んでいる。
ロッカーの扉に映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。

「佐伯さん、お疲れさまでした」
背後から声がして、澪は少しだけ肩をすくめた。
振り返ると、ひかりが立っていた。
髪をひとつに束ね、まだ実習用の制服のまま、手には水筒を持っている。

「お疲れさま。もう帰るの?」
「はい。でも…ちょっとだけ、話してもいいですか?」

澪はうなずき、ロッカーの扉を閉めた。
ひかりは隣に腰を下ろし、少し間を置いてから、ぽつりとつぶやいた。

「彼女と、昨日また喧嘩しちゃって」
「そっか…大丈夫?」
「うーん、よくわかんないです。年下のくせに、すぐ拗ねるし」
「年下って、難しいよね」
「でも…佐伯さんみたいな人が相手だったら、きっと違うのかなって思った」

その言葉に、澪は一瞬、息を止めた。
ひかりの横顔は、冗談を言っているようで、どこか本気だった。
澪は何も言えず、ただロッカーの鍵を握りしめた。


『白衣の内側、春の手前』

― 続き ―

ロッカールームを出て、澪は一人、職員用のトイレに入った。
鍵をかけ、扉にもたれかかる。
制服の下、白衣の内側に残る微かな体温が、じんわりと肌にまとわりついていた。

下着の上から、彼の手が触れたのは、ほんの数時間前のことだった。
夜勤の合間、誰もいない処置室の隅。
「疲れてるだろう」と言いながら、彼はそっと澪の腰に手を回した。
それ以上は、なかった。
いつもそうだ。
彼は決して“その先”には踏み込まない。
澪も、それを望まないふりをしている。

でも今、ショーツはしっとりと湿っていた。
それが、彼の手のせいだとわかっている。
わかっているのに、心はどこか遠くにあった。

「どうして、こんなふうになってしまったんだろう…」

澪は鏡に映る自分を見つめた。
目の奥にあるのは、欲望でも、愛でもない。
ただ、空白だった。

そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
画面には「ひかり」の名前。
たった今、別れたばかりのはずなのに。

「佐伯さん、さっきはごめんなさい。変なこと言って」
「でも、ほんとのことだから。
 私、佐伯さんのこと、ちゃんと見てます。
 また話せたら、うれしいです」

澪はスマホを胸に抱き、目を閉じた。
ひかりの声が、耳の奥で、やさしく響いていた。


澪は、処置室の隅に立ったまま、そっと目を閉じた。
白衣の袖口から覗く手首に、彼の指が触れた感触が、まだ残っている。
それは、やさしくて、あたたかくて、
でも、どこか“他人行儀”だった。

「体は正直ですね」
以前、ひかりがぽつりと言った言葉が、ふいに蘇る。
あのときは、冗談めかして笑い飛ばしたけれど、
今になって、その意味が胸に刺さる。

心は拒んでいるのに、
身体は、彼の手を覚えている。
でも、ひかりの指先が触れたときの、あの震えるような感覚とは、まるで違う。

「正直すぎるのも、困るよね…」

澪は、誰にともなくつぶやいた。
鏡の中の自分が、少しだけ笑った。
その笑みは、泣きそうな顔に、よく似ていた。


『白衣の内側、春の手前』

― 村瀬医師・自宅の夜 ―

「こんや、子どもたち、はやく寝たわよ」
妻は、キッチンの明かりを落としながら、やわらかく言った。
「こんや、一緒の布団で…しましょう?」

村瀬は、ソファに座ったまま、手元のスマホを見つめていた。
澪からのメッセージは、来ていない。
でも、送る気にもなれなかった。

「…どうしたの? あれー、あんた、元気ないわよ」
妻が隣に腰を下ろし、彼の肩に手を置いた。
その手のぬくもりが、どこか遠く感じられた。

「いや…ちょっと、疲れてるだけだよ」
「そう? でも、最近ずっとそんな感じよ。
 病院、そんなに大変なの?」

彼はうなずいた。
うなずくしかなかった。
本当のことなんて、言えるはずがない。

妻の手が、そっと彼の胸元に触れる。
けれど、彼の身体は、どこかで拒んでいた。
澪の白衣越しのぬくもりが、まだ指先に残っていたから。

「ごめん、今日は…先に寝るよ」
そう言って立ち上がる彼の背中を、
妻はしばらく見つめていた。


『白衣の内側、春の手前』

― 澪のモノローグ ―

あの夜、私は泣いていた。
声も出さずに、ただ、ひかりの胸の中で震えていた。
彼女の指先が、私の奥に触れたとき、
私はもう、何も考えられなかった。

「大丈夫です、全部、わたしがしますから」
そう言って、ひかりは私の手をそっと押しのけた。
私はただ、されるがままに、
彼女のぬくもりに身を委ねていた。

終わったあと、
私は何も言えずに、天井を見つめていた。
ひかりは、私の髪を撫でながら、
「佐伯さん、きれい」とだけ、つぶやいた。

——ああ、でも。
あのことは、誰にも言えない。
ましてや、村瀬先生には。

「20才の彼女に…出してもらった」なんて、
そんなこと、口が裂けても言えない。

私は、何をしてしまったんだろう。
でも、あの夜の私が、いちばん“私”だった気がする。
それが、いちばん怖い。




『白衣の内側、春の手前』

― ひかり・帰宅の夜 ―

「ただいまー」

玄関のドアを開けながら、ひかりはいつもの調子で声をかけた。
でも、顔は上げない。
リビングの明かりがついているのを横目に見ながら、
両親の返事を待たずに、まっすぐ階段を上がる。

「おかえり」と母の声が背中に届いたけれど、
ひかりは返事をせず、二階の自室のドアを静かに閉めた。

カーテンも開けっぱなしのまま、
ベッドにうつぶせに倒れ込む。
シーツの冷たさが、火照った頬に心地よかった。

「あーー……」

声にならない吐息が、枕に吸い込まれていく。
目を閉じると、澪の横顔が浮かんだ。
あの、かすかに震える指先。
触れたときの、あたたかさと、切なさ。

——そのとき、ふと気づく。
ショーツが、湿っている。

「……」

ひかりは、ゆっくりと身体を起こし、
クローゼットから新しい下着を取り出した。
脱いだショーツを丸めて、洗濯カゴにそっと落とす。

その音が、やけに大きく響いた。

「……わたし、なにしてるんだろ」

誰にも聞こえない声でつぶやいて、
ひかりは着替えを終えると、ベッドに背を預けた。
天井のシミを見つめながら、
澪の肌の匂いを、まだ鼻の奥に感じていた。


『白衣の内側、春の手前』

― ひかり・夜の部屋にて ―

スマホが震えた。
ベッドの上でぼんやりしていたひかりは、
反射的に画面をのぞき込む。

「先輩 こんどの 一日休息日 出かけたいです どこか行きませんか」

送信者は、看護学校の後輩。
実習で一緒になった、あの子だった。

ひかりは、しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
その子が、自分に好意を寄せているのは、なんとなく気づいていた。
でも、いままでは、ただの“かわいい後輩”として受け止めていた。

けれど、今は違う。
澪と過ごした夜が、ひかりの中の何かを変えてしまった。
誰かに触れられることの重さ。
触れることの意味。
それを、知ってしまった。

「……」

ひかりは、スマホを胸に置いて、目を閉じた。
澪の指先の記憶が、まだ肌に残っている。
でも、LINEの文字は、
まるで“別の未来”を差し出しているようだった。

「どうしようかな…」

つぶやいた声は、誰にも届かない。
ただ、部屋の静けさの中に、ゆっくりと沈んでいった。



洗面所の電気をつけると、ほんのりと湯気が残っていた。

夫が先に入った風呂の余熱が、鏡を曇らせている。
バスタオルを手に取りながら、
彼女は洗濯機のフタを開けた。

中には、夫のシャツとトランクス。
いつものように、無造作に放り込まれている。
それを手に取ったとき、ふと、指先にぬるりとした感触が残った。

「……?」

トランクスの股間のあたりが、湿っている。
汗? いや、違う。
風呂に入ったあとにしては、不自然な湿り方だった。

彼女は、何も言わずにそれを洗濯機に戻した。
洗剤を入れ、スイッチを押す。
水が流れ込み、衣類が回り始める音が、
やけに大きく響いた。

その夜、彼女は夫と同じ布団に入った。
「久しぶりね」と笑いながら、彼の肩に手を置いた。
けれど、彼の身体はどこか遠く、
まるで別の場所に心を置いてきたようだった。

「ねえ、どうしたの? あんた、元気ないわよ」

夫は笑ってごまかした。
「ちょっと、疲れてるだけだよ」

彼女はそれ以上、何も言わなかった。
でも、心の奥に、洗濯機の中の湿った感触が、
じっと残っていた。



布団の中、彼女はそっと手を伸ばした。
夫の腰に触れ、そこからゆっくりと指先を滑らせる。
けれど、彼の身体は、何の反応も示さなかった。

「……」

彼女は、しばらくそのまま手を置いていた。
温もりはある。
でも、そこに“生きた気配”はなかった。

「……最近、ずっとこうね」

彼は寝返りを打ち、天井を見上げたまま、
「ごめん、ほんとに疲れてて」とだけ言った。

彼女はうなずいた。
それ以上、何も言わなかった。
けれど、心の奥では、さっきの感触がじわじわと広がっていた。

洗濯機の中の、湿ったトランクス。
あの場所だけが、妙に重たく、ぬめっていた。
風呂に入ったあとなのに。
汗じゃない。水でもない。
あれは、きっと——

「……うそでしょ」

声に出すと、部屋の空気が一瞬、止まったように感じた。
夫は気づかないふりをして、目を閉じている。
その横顔を見つめながら、彼女は思った。

“まさか、浮気?”

いや、でも。
そんなはずはない。
彼はいつも通りだった。
帰宅時間も、態度も、変わらなかった。
ただ、ここ数日、夜になると決まって「疲れてる」と言って、
彼女の手をやんわりと避けるようになった。

「……」

胸の奥が、じんわりと冷えていく。
疑いたくない。
でも、疑ってしまう。
それが、いちばんつらかった。



朝、夫が出勤したあと、彼女は台所の片づけを終え、
ふと、昔のことを思い出していた。

——あの病院で働いていた頃。
受付のカウンター越しに、彼と目が合った日。
白衣のポケットに手を突っ込んで、少しだけ不器用に笑った彼。
あの頃の彼は、もっとまっすぐだった。
患者にも、同僚にも、そして自分にも。

「……変わったのは、私のほう?」

そうつぶやいて、彼女はリビングのソファに腰を下ろした。
スマホを手に取り、病院のホームページを開く。
スタッフ紹介のページには、変わらず夫の写真が載っている。
その隣に、見覚えのある名前を見つけた。

「佐伯澪……?」

どこかで聞いたことのある名前。
いや、見たことがある。
あの子、たしか——

彼女はスマホを置き、立ち上がった。
洗濯機の中では、まだ洗濯物が回っている。
あの湿ったトランクスも、今ごろ泡にまみれているはずだった。

でも、心の中のざわめきは、
洗い流されるどころか、ますます濁っていくばかりだった。




昼下がり、子どもたちが学校に行き、家の中が静まり返ったころ。
彼女はキッチンのテーブルにスマホを置き、
病院の代表番号に電話をかけた。

「はい、〇〇病院、事務課でございます」

懐かしい声だった。
かつて一緒に働いていた同僚の声。
今も変わらず、あの受付に立っているのだろう。

「もしもし、〇〇です。お久しぶり。あの……」
少し間を置いて、彼女は言った。
「わたし、事務員に復帰したいんだけど、事務のあき、ありますか?」

電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
その沈黙が、彼女の胸をざわつかせる。

「えっ、〇〇さんが? あ、うん、ちょっと確認してみるね。
 今、非常勤の枠がひとつ空いてるかも。週何日くらい入れる?」

「週3日くらいなら。午前中だけでも大丈夫?」

「うん、それならたぶん大丈夫。課長に話してみるよ。
 あ、でも……ご主人、大丈夫かな?」

「ええ、大丈夫。本人にも、もう話してあるから」

嘘だった。
まだ何も言っていない。
でも、言うつもりだった。
今夜、帰ってきたら。

電話を切ったあと、彼女は深く息を吐いた。
キッチンの窓から差し込む光が、
まるで手術室のライトのように、
彼女の決意を照らしていた。



夜勤明けの静かな時間。
ナースステーションの奥、誰も使っていない面談室に、ふたりきり。
カーテン越しに差し込む朝の光が、
彼女の頬を淡く照らしていた。

村瀬は、白衣のポケットに手を入れたまま、
しばらく黙っていた。
そして、低く、静かな声で言った。

「……きみさぁ、この病院、やめてくれるか」

彼女は一瞬、何を言われたのか理解できず、
目を見開いたまま固まった。

「次の病院、紹介状を書く。
 この近くだから、安心しなさい。
 通勤も、今と変わらないくらいだ」

「……先生、わたし、別れたくありません」
彼女の声は震えていた。
「ここにいたいです。
 先生のそばにいたいんです」

村瀬は目を伏せた。
机の上に置かれたカルテの端を、無意識に指でなぞる。

「……でも、うちの奥さんが、事務に復帰するかもしれない。
 そうなったら、きみとここで顔を合わせるのは、まずい」

彼女は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりとつぶやいた。

「……奥さんが復帰するなら、仕方ないです」

その言葉に、村瀬は小さくうなずいた。
「すまない。
 でも、次の病院には話を通してある。
 今度は、正看護師として働けるように頼んでおいた。
 給料も、今より少し多めに出してもらえるように言ってある」

彼女は、かすかに笑った。
でも、その目は笑っていなかった。

「……先生って、やさしいですね。
 でも、ずるいです」

村瀬は何も言えなかった。
ただ、彼女が立ち上がり、
静かにドアを閉めて出ていくのを見送った。

その背中が、やけに小さく見えた。


面談室のカーテンが、外の光をやわらかく遮っていた。
ふたりの間に流れる空気は、もう“恋人”のものではなかった。
けれど、まだ手放しきれない何かが、そこにあった。

彼女は、椅子に座ったまま、
小さな声で言った。

「……いちおう、けじめとして。
 いま、数分だけど……激しいこと、したいです」

村瀬は驚いたように彼女を見た。
けれど、その目には、どこか懐かしさと、
どうしようもない優しさが浮かんでいた。

「……ドッキングしていいかい?」
彼は、冗談のように、でも真剣に尋ねた。

彼女は、静かにうなずいた。
その仕草は、どこか祈るようで、
そして、別れを受け入れる覚悟のようでもあった。

ふたりは、言葉を交わさずに近づいた。
白衣の擦れる音だけが、部屋に響いた。
それは、最後のぬくもり。
もう戻らないと知っているからこそ、
互いの存在を深く刻みつけるような時間だった。

終わったあと、彼女はそっと身を起こし、
髪を整えながら、言った。

「……これで、ちゃんと終われます」

村瀬はうなずいた。
けれど、胸の奥には、
何かがぽっかりと空いたような感覚が残っていた。


彼の胸に顔をうずめたまま、彼女はぽつりとつぶやいた。

「先生……ごむ、つけてくださいよ。
 今日、たぶん……排卵日の時期近いから」

その声は、どこか遠くを見ているようだった。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
あるいは、未来を諦めるための、最後の確認のように。

村瀬は一瞬、動きを止めた。
彼女の髪にそっと手を添えながら、
「……わかった」とだけ答えた。

彼女は、少しだけ笑った。
でもその笑みは、どこか寂しげで、
まるで“これでいいんです”と自分に言い聞かせているようだった。

「先生って、ちゃんとしてるから、
 こういうときも、ちゃんとしてくれるんですね」

「……そういうの、大事だからな」

ふたりは再び、静かに身体を重ねた。
それは、愛というよりも、
記憶に残すための儀式のようだった。

終わったあと、彼女はそっと白衣を整え、
「ありがとうございました」と言って、
深く頭を下げた。

村瀬は何も言えず、ただその姿を見送った。
ドアが閉まる音が、やけに遠くに感じられた。


あの夜、彼女は震える指で白衣のボタンを外しながら、
心の中で何度も言い聞かせていた。

——先生なら、きっと大丈夫。
——先生なら、わたしのこと、ちゃんと見てくれる。

「……先生、わたし、はじめてなんです」

その言葉に、村瀬は動きを止めた。
彼女の目を見つめ、しばらく黙っていた。

「……本当に、いいのか?」

彼女はうなずいた。
その瞳には、迷いも、恐れも、そして期待もあった。

「先生なら、バージン、捧げてもいいって思ったんです。
 ずっと、そう思ってました」

村瀬は、何かを飲み込むように目を閉じた。
彼女の言葉が、胸に重くのしかかる。
それは、喜びではなく、
どこか取り返しのつかないものを受け取ってしまうような、
そんな感覚だった。

「……ありがとう。でも、ちゃんと、大事にするよ」

彼女は微笑んだ。
その笑顔は、どこか幼くて、
けれど、もう戻れない場所に足を踏み入れた人の顔だった。


——先生は、知らない。

わたしが、ほんとうの“はじめて”をあげたのは、
1つ年下の、あの子だったことを。

同じ寮で、同じ時間にごはんを食べて、
同じ制服を着て、
夜になると、同じ布団に潜り込んで。

あの子の手は、やさしかった。
でも、どこか頼りなくて、
わたしが引っ張っていかなきゃいけないような、
そんな気がしてた。

だから、先生に出会ったとき、思ったの。
この人なら、わたしを導いてくれるかもしれないって。

「先生なら、バージン捧げてもいい」って言ったとき、
ほんとは、少しだけ嘘をついた。
でも、それは“嘘”というより、
“もう一度、はじめからやり直したい”っていう願いだったのかもしれない。

あの子との夜を、なかったことにしたいわけじゃない。
でも、先生となら、
違う意味で“はじめて”になれる気がした。

それが、叶わないって分かった今でも、
わたしの中には、
ふたりのぬくもりが、まだ残ってる。


澪は、夜の静けさの中で、
ふと、あの子の指の感触を思い出していた。

——あの子の指、わたしにぴったりだった。
細くて、あたたかくて、
触れられるたびに、
自分の輪郭がやわらかくほどけていくような気がした。

擦れる感覚。
ゆっくりと、でも確かに深くなっていく動き。
それが、心の奥まで届いて、
気づけば、息をするのも忘れていた。

「……好きだったな、あの感じ」

でも、村瀬先生の手はまったく違った。
大きくて、ごつごつしていて、
触れられると、
まるで自分が“抱え込まれている”ような気がした。

安心と、支配。
優しさと、重さ。
そのどちらも、澪の中では“好き”だった。

——どちらが本当のわたしなんだろう。

あの子といたときの、
やわらかくて、対等な時間。
村瀬といるときの、
守られているようで、でもどこか苦しい時間。

どちらも、澪の中に残っている。
身体の奥に、記憶として。

「……わたし、どこに向かってるんだろう」

誰にも言えないまま、
澪はそっと目を閉じた。


夜、シャワーを浴びながら、
澪はそっと自分の指先を見つめた。

——あの人の指の感覚、
  まだ、どこかに残ってる気がする。

あのときは、
触れられることが“愛されている証”だと思っていた。
求められることが、
自分の価値だと信じていた。

でも今は違う。
ひかり先輩の手に触れられるたびに、
わたしは“わたし”として、そこにいていいんだって思える。

あの人の手は、
わたしを包んでくれたけど、
同時に、わたしを“誰かのもの”にしてしまった。

——もしかしたら、
  わたし、あの感覚を忘れたいのかもしれない。

ひかり先輩といると、
あの記憶が、少しずつ遠のいていく。
あの夜の重さも、
あの部屋の匂いも、
少しずつ、薄れていく。

「……わたし、ちゃんと前に進みたい」

シャワーの音に紛れて、
澪は小さくつぶやいた。

それは、誰に聞かせるでもなく、
自分自身への誓いのようだった。


奥さんが事務室に入ってきた日、
病院の空気が、少しだけ変わった。

誰も口には出さないけれど、
看護師たちの間に、
目に見えない緊張が走った。

澪は、その空気を肌で感じていた。
けれど、それ以上に、
“あの人がもういない”という事実が、
胸の奥にぽっかりと穴をあけていた。

——ひかり先輩は、もういない。

あの夜を最後に、
ひかりは何も言わずに、
別の病院へと移っていった。

「紹介状、書いておいたから」
そう言った村瀬の声は、
どこか他人事のようだった。

澪は、何も聞かなかった。
何も言わなかった。
ただ、ひかりの残り香が消えていくのを、
黙って見送った。

そして今、
奥さんが病院に戻ってきた。

白衣ではなく、事務服を着たその姿は、
どこか冷たく、
でも、凛としていた。

「澪さん、でしたよね。
 いつも夫がお世話になってます」

その声は、やわらかかった。
けれど、目は笑っていなかった。

澪は、軽く会釈をして、
「こちらこそ、お世話になってます」と答えた。

でも、その瞬間、
背筋に冷たいものが走った。

——あの人は、もういない。
 でも、何かが、これから始まる。

澪は、自分の胸の奥に残る“ひかりの温度”を、
そっと確かめるように、
制服のポケットを握りしめた。


車の中、時計の針が23時を過ぎたころ。
ふたりの間に、沈黙が落ちた。

彼がそっと、上着を手に取ったとき、
彼女はその手を、そっと押さえた。

「……着ちゃダメ」

村瀬は、驚いたように彼女を見た。
けれど、彼女の目はまっすぐだった。

「その白衣の下に戻らないで。
 今だけは、先生じゃなくて、
 ただの“あなた”でいて」

彼は、手を止めた。
そして、ゆっくりと上着を膝に置いた。

「……どこかで、落ち合おう」
彼女がつぶやいた。

「え?」

「このまま終わるの、やだ。
 病院じゃなくていい。
 部屋じゃなくていい。
 どこか、誰にも見つからない場所で……
 あと一度だけ、ちゃんと会いたい」

彼は、しばらく黙っていた。
けれど、その沈黙の中に、
彼女は“まだ終わっていない”という確信を感じた。

「……わかった。
 場所は、俺が決める。
 連絡する」

彼女は、小さくうなずいた。
その目には、涙はなかった。
でも、何かが静かに崩れていく音が、
車内に満ちていた。


車の中は、エンジンを切ったまま、
外の街灯だけがぼんやりと差し込んでいた。

フロントガラスに映る街の光が、
ふたりの顔を淡く照らしている。

澪は、両手を膝の上に置いたまま、
しばらく黙っていた。
村瀬も、何かを察しているようで、
ただ静かに、彼女の言葉を待っていた。

「……先生」

「うん」

「わたし、
 生理が……2週間、来てないんです」

村瀬の視線が、ゆっくりと澪に向いた。
その目に浮かんだ一瞬の動揺を、
澪は見逃さなかった。

「……でも、あのとき、ちゃんと……」

「うん。
 先生、ごむ、つけてくれた。
 でも……途中までは、なかったし……
 だから、もしかしてって……」

声が震えていた。
けれど、目はそらさなかった。
この夜、この場所で言わなければ、
もう言えない気がした。

「検査は?」

「まだ、してない。
 こわくて……
 でも、ずっと考えてて、
 先生にだけは、ちゃんと伝えなきゃって思って」

村瀬は、深く息を吐いた。
そして、ダッシュボードに手を伸ばし、
何かを探すふりをしながら、
言葉を選んでいた。

「……澪、ありがとう。
 言ってくれて。
 明日、俺が付き添うよ。
 一緒に、ちゃんと確認しよう」

「……うん」

ふたりの間に、また沈黙が落ちた。
けれどその沈黙は、
さっきまでのような不安だけではなく、
どこか、覚悟のようなものを含んでいた。

外では、風が車体をかすかに揺らしていた。
その揺れに身を任せながら、
澪は、そっと目を閉じた。


🌟 みんなで広げよう!🌟

『輝虹会スターレインボー』の活動をもっと多くの人に知ってもらうために、ぜひSNSで投稿をお願いします!
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